« 行きあたりばったりのオルガン・コンサート | トップページ | マテウッツィのマスタークラス(1) »

2018年8月29日 (水)

モンテヴェルディ《ポッペアの戴冠》

モンテヴェルディ作曲のオペラ《ポッペアの戴冠》を観た(ザルツブルク、モーツァルト劇場)。

以前にも書いた気がするが、モーツァルト劇場というのは、モーツァルトハウスというのだが、ザルツブルクにはモーツァルトの生家とその後引っ越して住んだ家があり、どちらも博物館として公開されている。それとは別にモーツァルトハウスという劇場があるのだ。説明なしではあまりに紛らわしいと考えモーツァルト劇場としておく次第です。
指揮はウィリアム・クリスティーで管弦楽はレ・ザール・フロリサン。周知のごとく、小規模で古楽器を使用している。
一言で言えば非常にレベルの高い、かつ興味深い演出の上演でモンテヴェルディの作品の力に改めて感銘を受けた。
歌手については、考えさせられることがいくつかあった。歌手の歌唱法や様式感はどこまで統一すべきかということ。究極のところを言ってしまえば、モンテヴェルディの時代にどんな風に歌っていたのかは録音がない。モンテヴェルディだけでなく、ロッシーニの時代でもないわけだ。ロッシーニの時代に関しては、ペーザロのロッシーニ・オペラ・フェスティヴァルおよびそこでの若手歌手向けのアカデミーで、今は亡きゼッダが徹底的に指導して、ロッシーニはこう歌うべきという指針を示し、それを反映してROFでのロッシーニ演奏は概して、様式感の統一がとれた演奏になっている。
この日のモンテヴェルディでは比較的緩やかな統一感であり、個々の歌手の歌いぶりには単に声質や声量の問題ではなく、違いが見られた。
ポッペアを歌い演じたのはヨンチェヴァ。彼女の存在感は絶大だった。ポッペアがネロを夢中にさせる魅惑を持つということを声でも演技でも説得力を持って示していた。彼女の歌いぶりは様式感があるのだが、時にロマンティックな歌唱法に傾く。傾いてギリギリのところでまた戻ってくるという感じで、どういう歌い方もできるし、劇の展開に応じてその場面の求める表情・表現に最適の歌唱法を使い分ける感じである。
ネロのケイト・リンゼイはメゾでややくぐもった声は魅力的なのだが、ところどころ発音がはっきりしない。それに対し、発音が最も綺麗で、よく聞き取れたのはオットーネを演じたカルロ・ヴィストーリ(カウンターテナー)。感心してプログラムを見たらマテウッツィやソニア・プリナに習っているのだった。なるほど。以前、マテウッツィに習った日本人歌手にお話をうかがったことがあるのだが、マテウッツィは発音の細かい点まで念入りに指導するという。イタリア語の母音はアエイオウなのだが、エとオには開口音と閉口音がある。地域差や個人差があって、この区別をする人としない人がいるが、若い知人でも(トスカナ出身)する人はするのだった。
そこまでの細かさは原則イタリア人歌手にしか求めないとしても、普通に歌詞は聞き取れるのが良いのは言うまでもない。セネカのレナート・ドルチーニはバリトンだが、歌唱、発音ともに安心して聞いていられる。
この日の演出では、バレエ・ダンサー(沢山いる)が入れ替わり、立ち替わり、歌手の周りにいたり、舞台奥で絡み合っていたり、あるいは舞台中央少し奥で1人のダンサー(入れ替わる)がずっとクルクル回っている。登場人物が歌っていようが退場しようがクルクル回っているので、時や運命の輪を表象しているのかとも思う。
大勢のダンサーにより、身体性を前景化するのは優れた試みであると思うが、女装したオットーネが(オッタヴィアの命令を受け)ポッペアを殺害しようとし失敗する場面では、ポッペアが眠っている(庭で昼寝をしている)のを彼女が立ったまま目をつむり、周りに何人ものダンサーがいてこれまた眠っているという状況なのだが、オットーネが女装しないのと殺害の試みおよび失敗は演劇的にはっきりしなかった。
乳母やアルナルタといった役はマルセル・ビークマンやベテランのドミニク・ヴィスが女装して演じ、演劇的にも達者でユーモラスなシーンを見せ、聞かせていた。
《ポッペアの戴冠》は周知のように、《オルフェオ》とは異なり、残された楽譜がメロディーと通奏低音しか示しておらず、どうオーケストレーションするかは版によって異なるし、リブレットの異動に関しても最終曲を含め様々な問題を抱えている。作曲も、モンテヴェルディ単独ではなく、1人あるいは複数の作曲家が手伝ったのではないかと言われている。しかしながら、実際の上演に接してみると、劇的に盛り上がったところでの半音階の使い方の絶妙さを含め、凡庸なところがない。他の作曲家が作ったものも仕上げはモンテヴェルディが一筆加えたのではないかと考えたくなる。俳句の添削などでもそうだが、宗匠が一筆加えると、俄然生き生きとする、ということがある。
最終曲' Pur ti miro'は、非常にゆっくりとしたテンポで嫋嫋と歌われた。そのポッペアとネロの2人をオケの男性奏者が呆然と陶然として見ているのが印象的だった。何度でもモンテヴェルディ(少なくとも最終監修はモンテヴェルディだと信じる)の二重唱に感動できる、しかも技術の高い演奏家。そういう愛すべき演奏家を間近に聞けた幸せな一夜であった。
なおこの上演は筆者が見た日とは異なりますが、8月29日現在you tubeで見ることが可能です。今、確認したところ、最終曲はyoutube の日の方がごく普通、つまり筆者が見た日よりもずっと早いテンポで歌っています。個人的には早い方が好みであったけれど、きっと楽日なので歌手の歌いように歌わせたのではないかと想像します。

|

« 行きあたりばったりのオルガン・コンサート | トップページ | マテウッツィのマスタークラス(1) »

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)


コメントは記事投稿者が公開するまで表示されません。



トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.cocolog-nifty.com/t/trackback/144339/67107576

この記事へのトラックバック一覧です: モンテヴェルディ《ポッペアの戴冠》:

« 行きあたりばったりのオルガン・コンサート | トップページ | マテウッツィのマスタークラス(1) »