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2018年3月12日 (月)

《イル・カンピエッロ》

ヴォルフ=フェッラーリのオペラ《イル・カンピエッロ》を観た(新国立劇場、中劇場)。

友人のE君のご厚意によりゲネプロを観ることができ、その後、8日に本公演を観た。
ゲネプロに行ってまず印象的だったのは、このところバロック音楽を聞き、ピリオド楽器に耳がなれているため、オーケストラの音がこれほど大きかったか、とびっくりしたことだった。金管楽器の音量、いや他の楽器も。人数はどちらも30数人くらいで、大差はないが、音量には体感的には相当差がある。
そのことは今回の上演に何も関係ないように思えるかもしれないが、僕の中ではそうでもなくて以下、バロック上演と比較しつつ心に浮かんだことを記す。
イル・カンピエッロというのはヴェネツィアの広場のことで、このオペラの原作はゴルドーニの18世紀の作品で、それを20世紀になって1930年代にマリオ・ギザルベルティが台本を書き、ヴォルフ=フェッラーリが曲をつけたわけだ。そのため、台本は18世紀のオペラ・ブッファ的な様相を呈しているところが多々あるし、作曲もそれを踏まえているところがある。しかし、その一方で、1930年代といえば、プッチーニやヴェリズモオペラの直後に来るわけで、このオペラにははっきり《道化師》のメロディーが露骨に引用される箇所がある。また、さほど深刻でない登場人物間の葛藤(ヤキモチ)に、重いシリアスな音楽が付されていたりする。それはヴェリズモオペラのパロディなのだと私は見た。
実際、そういった露骨なパロディではないところでも、フレーズの終わりの部分が妙に皮肉に嘲笑的な響きのするところは何度もあるのだ。
このオペラ、若い女性が3人、その母親3人(母親なのだが、3人のうち2人はテノールが歌う)、若い女性の叔父、若者2人と騎士で、登場人物が10人もいる。だから、ロッシーニの《ランスへの旅》と同様に、新人公演に向いているオペラだと思う。しかも、ソロのアリアだけでなくて、登場人物の重唱、あるいは、コンチェルタートのようになったりする。しかもそこで、ストーリーの展開上かなり身体的な動きがあるのだ。そういう意味でオペラ歌手として様々な能力を要求される役柄が何人も登場するわけだ。
その上、もう1つ難関なのは、ヴェネツィア方言である。ガスパリーナという女性はヴェネツィアで育ったのだが、ヴェネツィア訛りを治そうとして、過剰に訂正し、おかしな言語をしゃべる。
つまりヴェネツィア方言では標準イタリア語でツァ、ツィ、ツェなどと発音するところをサ、シ、セのようになってしまう傾向があるのを気にして、本来サ、シでよいものまでツァ、ツィに無理やりもどしてしまうので、ありえない発音が登場する。だから、最初、日本語字幕を見てもガスパリーナのイタリア語が聞き取れないところが多くあったのだが、歌手のせいではなく、そういう変な言語を話す登場人物であったのだ。
といったわけで、歌手は大雑把に言えばイタリア語であるが、細部においてはイタリア語からずれていく訛りを多分に含んだ発音に修正しなければならないわけで、そういった意味でも高度な訓練が必要になる演目だ。研修所の場合、立ち稽古になってからでも1ヶ月半の練習があるという話を小耳にはさんだ。現代の上演としては大変贅沢に時間を使っているわけで、無論それは大いに望ましいことであると思う。その結果として、さまざまなアンサンブルが聴き応えがある。
個々の歌手は、歌い込んだ成果が出ていたと思うが、声量には個人差がある。たとえば砂田愛梨(敬称略、以下同様)などはたっぷり響きわたり中劇場でなくても、大劇場でも十分な声量があるのではと感じた。声量に関して言えば、現代楽器のオケの大きさに釣り合う声量というのは大変なものなのだと思った。バロックやモーツァルトあたりまでは結構少人数のオケでも良いし、中小の劇場での上演が向くと思う。楽器でピリオド楽器と現代楽器にはそれぞれの良さがあるように、歌手の声量にも中小劇場向きに人と大劇場向きの人がいるのかもしれない。それは楽器の場合で明らかなように、必ずしも優劣ではないと思うのだ。日本でも、もっともっと中劇場、小劇場での上演が評価されて良いと思う。
柴田真郁の指揮は、軽妙なところ、シリアスなところを明確に振り分けて音楽の性格を聴き手にしっかりコミュニケートし好感が持てた。別の演目もぜひ聴いてみたい。粟國淳の演出は奇をてらわず、舞台上のドラマ展開が理解しやすくスッキリしており、かつ、コミカルなところはしっかり笑いのとれる洒落た演出。
ガスパリーナ 宮地江奈、ドナ・カーテ 水野優、ルシエータ 砂田愛梨、ドナ・パスクア濱松孝行、ニェーゼ 吉田美咲子、オルソラ 十合翔子、ゾルゼート 荏原孝弥、アンゾレート 氷見健一郎、アストルフィ 高橋正尚、ファブリーツィオ 清水那由太。
舞台衣装と舞台装置が調和がとれていてよかったし、歌手たちの仕草、身振りも個々の動き、アンサンブルとしての動き、めったに見られない高いレベルであったと思う。

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