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2018年3月 2日 (金)

チェンバロ・リサイタル

Mahan Esfahani のチェンバロ・リサイタルを聴いた(カールスルーエ、クリストゥス教会)。

もともとはバロック・バイオリンのリサイタルの予定だったのだが、奏者の怪我のため、急遽チェンバロ・リサイタルに変更された。バイオリンでNichola Matteis, バッハの無伴奏、Heinrich Ignaz Franz Biber といった大まかに言えばヘンデルの同時代人の作品をバロックバイオリンで聞く(特にバッハは例えばグリュミオーのようなモダン・バイオリンの演奏とどう違うのか)のを楽しみにしていたのだが、怪我とあってはやむをえない。
Mahan Esfahani はテヘラン生まれで、英米で教育を受けた若手のチェンバリスト。最初はギボンズ(1583-1625)の Pavan。モンテヴェルディと同時代人になるわけだ。次のバッハと比較するとずっと音の数は少ないシンプルな組み立てである。次はJ.S.バッハのイギリス組曲4番BWV809. バッハの音の多さ、装飾音の多さ、装飾音が繰り返されつつ音階を上っていったり下がっていったりしてメロディと分離しがたいこと、左手もやはり和音を鳴らしつつ音階を上がり下がりしてどこまでが伴奏、どこまでがメロディとは切り離しがたいことを確認。ロマン派以降の音楽に比べて立体的、構築的であり、かつ豊穣で、ほとんど過剰なまでに華麗、壮麗でゴージャスな音が押し寄せてくるのであった。
Esfahaniは早めのテンポでグイグイ攻めるタイプ。チェンバロの強みだが曲の途中でレジスター(ストップ)を用いて音色を変化させられる。会場は教会で蓋も開けてあるので、華やかに反響がこだまするので音量に不満はない。音色を残響を多い方に持って行くか、スタッカート気味の方に持って行くか、またその中間かで音色が変化していく。
次は予定を変更してJiri Antonin Benda (1722-1795) のソナタ5(1757)。バッハやヘンデルとハイドンの中間。対位法的な部分はあるのだが、それが本格的に発展する前に断片で終わる感じ。そして再びバッハで、トッカータ BWV 912.  この曲は途中で何度も曲想が大きく変わる。それを空中分解させずに1つにまとめる技量に今更ながら感嘆する。
最後はラモー(1683-1764)の新組曲。有名な鶏の曲が含まれている。Esfahaniはこの曲をエレガントには弾かない。どんどんと前へ前へとのめりそうなくらいに弾き進める。その結果、普段ならラモーにほとんどロココ的な優雅さを感じたりするのだが、彼がバッハと同時代人であることを認識させられるような曲の印象を受けた。言ってしまえば無骨なラモーなのだが、そこで新たに見えてくるラモー像があり、これはこれで収穫だった。
 満場の拍手に応え、アンコールはまず、パーセルのグラウンドハ短調。彼はクロフト作と言う説もあるが、クロフトでなくパーセルだと確信していると言う意味のことを述べて弾いた。パーセルは1659-1695年なのでヘンデルやバッハの直前の世代ということになろう。そして最後がドメニコ・スカルラッティ。左右の手が忙しく交錯し、まるでリストを弾いているような名人芸でエクサイティングであった。
Esfahani の演奏は単に名人芸のひけらかしではなく、バロック時代のチェンバロをめぐる音楽言語がどういうものであったかのパースペクティヴを与えてくれるものだった。1時間半強で、休憩は無しの充実した時間であった。

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