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2018年3月 3日 (土)

フランコ・ファジョーリ・リサイタル

フランコ・ファジョーリのリサイタルを聴いた(カールスルーエ、州立劇場、大ホール)。

伴奏はイル・ポモドーロ。この日のイル・ポモドーロはフルで16人。曲によって木管がいなくなったりするので15人や14人の時もある。オケはピットではなく舞台に乗っており、弦楽奏者はイスなしで立って演奏するスタイル。ただし、チェロは座っている。
オケはファジョーリの後ろにというか、彼を取り囲むように配置される。
このオケとファジョーリの息の合い方は尋常ではない。と言っても固苦しくピタッと合っているというのではなく、一緒に体を揺らしながらノっていく感じで、ヘンデル・ゾリステンの奏者たちと比較するとより若々しいというか、ポップな感じである。
イル・ポモドーロとファジョーリの共演で聞くヘンデルは、昨日までの《セメレ》、《アルチーナ》と通じる世界であるはずなのだが、ある意味では別天地であった。ファジョーリは、曲のフレージングのレベルではなく、装飾音の隅々までコントロールしており、イル・ポモドーロもファジョーリのビブラート、装飾音の早さ、リズムに合わせて合奏するのだ。だからファジョーリはアリアの途中で歩き回ってコンサート・ミストレス(兼指揮者)の傍によっていったり、他の奏者の傍によってアイコンタクトをとったりするのが自然に思えてくる。ファジョーリはタキシードの上着のようなへちま衿でラメの入ったジャケット、 ノーネクタイで登場。
曲目だが、最初はオケのみで《セルセ》の序曲。次が《ジュリオ・チェーザレ》の 'Presti omai l'Egizia terra',  《イメネオ》の 'Se  potessero i sospiri miei' そして《オレスト》の'Agitato da fiere tempeste' . 静かな曲ではじめ、《オレスト》の曲は超絶技巧たっぷりのエクサイティングな曲。
超絶技巧のところでもファジョーリとイル・ポモドーロは息がぴったり合い、目線を交わしたりして楽しそうに演奏している。何かジャズの即興の掛け合いを想起させる感じだ。歌がこう来るなら、こう応じよう、それにまた歌が反応してと。無論、歌の表情、喜び、悲しみ、怒りといったものは歌もオケも十全に表現し、その上で、音楽的な喜びが横溢しているのである。リズムやテンポも柔軟に伸び縮みするのだが、それが自然でかつ歌手・奏者がバラバラにならないという奇跡的なレベルの高さ。唖然とするほかはない。聴衆もこれまでのこの劇場で聞いたことのないほどブラボーや拍手が熱い。ファジョーリは過去にもカールスルーエでオペラに出演したり、リサイタルを催しており、彼らの心をつかんでいるのだろう。
次はコンチェルト・グロッソ作品6No2だったが、正直に言って、この曲がこれほど面白い曲であるとはこの日はじめ気がついた。第一ヴァイオリンから第二ヴァイオリンへ、同じ旋律が受け渡される時にも、装飾音がつく小技があるからというだけでなく、そこでのチェロの動きが実に弾むリズムで二人のやり取りを活性化している。彼・彼女らは実に体がよく揺れる。音楽が体から溢れてきて嬉しくて仕方がないという感じ。こちらも楽しくなってくる。ああ、これがヘンデル的喜びだ、バロック的快楽だ、と思う。二番目のラルゲットは特に見事であった。
再びファジョーリが登場して《パルテノぺ》の'Ch'io parta' ,《時と悟りの勝利》の'Come nembo he fugge col vento' 。後者がやはり超絶技巧の曲で聴衆を熱狂させ、休憩へ。
あっという間に1時間が経過した。
後半はまず《アルチーナ》の’Mi lusinga il dolce affetto'. 出だしは、つい先日観たばかりの演目なのでああ、あの曲という感じだったが、途中から違う曲のような気さえしてくる。声の震え、ビブラートをどこまでかけるかかけないか、までがコントロールされ、無意味になんとなく流しているところが無い。音楽的な表情は考え尽くされ、吟味し尽くされ、その上で、即興性を持っている。だから、完成度が高いのに、堅苦しくは無い。 指先まで神経の行き届いた体操選手、フィギュアスケートの選手を思わせなくも無い。ヘンデルを奏でる美しさ、音楽的喜びが一方にあって、同時に、人間はここまで声を、声の表情をコントロールできるのかという感嘆がある。
《忠実な羊飼い》の’Sento brillar nel sen'がまたまた超絶技巧で会場は興奮の渦。ヒューと口笛を鳴らす人、ブラボー、拍手、拍手。
シンフォニアHWV338は初めて聞く曲だった。会場の酔い覚まし。
《アリオダンテ》の'Scherza in fida’。これ以上やったらやりすぎかも、という寸前まで悲しみの表情が濃い。恋人に裏切られて死にたいという曲だから、表情の濃さは必然性があるのだが。ファジョーリといえども、コンサートの出だしとこのあたりでは明らかに声の出方が違っている。体があったまって?どんどん声が出てくるようになる。響きも豊かになり、声のプレゼンスが強くなる。そこにあらゆるテクニックを柔軟に駆使して切々と悲しみの歌が繰り広げられるのだから、皆ノックアウト。
最後は《セルセ》のシンフォニアと 'Crude furie degli orridi abissi' で、このエクサイティングなアリアで最後にオケがジャンジャンとやるところではファジョーリは足を二度踏み鳴らした。思わず出たのかいつもやっているのかは不明。だが、会場はもう熱狂して、スタンディング・オベーション。全員が立って割れるような拍手、ブラボー。
アンコールの一曲目は《セルセ》の'Se bramate d'amar chi vi sdegna'.  お客の興奮は冷めやらず、アンコール二曲目は《リナルド》の'lascha ch'io pianga' で、驚いたことに、何度か冒頭のメロディーを歌ってまたそのメロディーが帰ってくるところで聴衆に向かって大きく両腕を開き、さあ皆さん歌ってというジェスチャーをした。聴衆は’lascia ch'io pianga...'と歌って応えた。驚きに満ちた喜びの瞬間だった。ファジョーリ、エンターテイナーだなあ。
最後は《セルセ》のオンブラ・マイ・フ。静かな曲だが、もちろん、皆満足。
《セルセ》からのアリアが多いが、来年カールスルーエでファジョーリは《セルセ》を演じるから、ということがある。
オペラの全曲上演というのはもちろん素晴らしいし贅沢な経験で、筆者はリサイタルよりはそちらを好んでいるのだが、今回の経験では、通常の自分の価値観をひっくり返されてしまった。俗な例えを許していただければ町の名店、あるいは1つ星の店で美味しいと思っていたのに、いきなり三ツ星レストランを経験してしまった驚き。音楽的な贅沢にも上には上があるものだ。
ということを言った上で、実演にこれから初めて接する方に過剰な期待を抱かせてはいけないと老婆心ながらいくつか書いておくと、ファジョーリはカウンターテナーなので声の大きさそのものは圧倒的ではない。これはバルトリなどもそう。ファジョーリやバルトリよりも音量の大きな歌手はいくらでもいる。彼、彼女より上手い歌手は、レパートリーをバロック期に限ればいないと言っても過言ではない。最近は、カウンターテナーでもどんどん新しい人が出現しているし、レジネバのような女性歌手で驚異的なアジリタが歌える人が出てきて嬉しい限りである。ファジョーリの発声方は独特で、ビブラートのかかり方も独特。通常、バロックものでビブラートがかかりすぎると嫌なのだが、彼のビブラートは不思議と心地良い。その発声法のせいで、子音は聞き取りにくい。つまり歌詞が聞き取りにくい点があるのは否めない。
しかし、そういうことは吹っ飛んでしまい、彼の歌の世界、イル・ポモドーロと一体化した音楽ワールドに連れ去られ、極上の喜びを味わった一夜であった。感謝、感謝、感謝。
そういえばこのコンサート、会場からダンケシェーン、グラツィエ、グラシアスと各国語でありがとうの声があがった。われわれは資本主義の世界にどっぷり浸って生きており、このコンサートもCDのプロモーションを兼ねているという。そういうことを知っていても、この場にいられた幸せ、彼の歌から得た喜びに感謝する気持ちを筆者も心から共有する。芸術やお祭りは時にわれわれを別の価値観の支配する世界に連れて行ってくれるのだ。そこから浮世に生きる勇気をもらっている人も少なくないだろう。

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