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2018年3月15日 (木)

《愛の妙薬》

愛の妙薬ドニゼッティの《愛の妙薬》を観た(新国立劇場、大劇場)

写真は前回のもので、演出は同一であるが、歌手は異なっている。直前に指揮者とアディーナ役の交代があった。指揮者はフレデリック・シャスラン。演出チェーザレ・リエヴィ。アディーナはルクレツィア・ドレイ。ネモリーノはサイミール・ピルグ。ベルコーレは大沼徹。ドゥルカマーラはレナート・ジローラミ。ジャンネッタは吉原圭子。
演出は創意工夫に富み、斬新さがありかつ、物語の進行をうまく伝えている優れたものである。緞帳がカラフルなアルファベットで構成されており、幕があがる前から不思議な世界に誘いこまれる。まず、この舞台では巨大な本(家と同じくらいの大きさ)がしばしば登場する。写真では「愛の妙薬」という本の上にアディーナが座っているが、巨大な本として何度も登場するのは、「トリスタンとイゾルデ」である。無論、これは一幕冒頭で、アディーナが村人たちにイゾルデの媚薬のエピソードを読み聞かせることへの言及なわけだが、この媚薬=妙薬がこのオペラを支配しているというコンセプトである。
 それと同時に、このオペラの第二幕ではメタシアター的な要素とドラマティック・アイロニーが多いのでそれへの言及とも考えられる。メタシアターというのは芝居の中で芝居をするということで、登場人物がディレクターのような役割を果たす場合もそうだ。第二幕の冒頭でアディーナとドゥルカマーラが、女船頭と年老いたセナトーレの掛け合いをやる場面はその典型である。その後、登場人物の間に情報量の格差が生じ、それを観客は承知の上で観ているのがドラマティック・アイロニーだが、ジャンネッタをはじめとする村娘たちは、ネモリーノが遺産相続をしてにわかに金持ちになったことを知りながら、ネモリーノはそのことをまだ知らない。村娘が愛想が良くなったのを、てっきり妙薬の効果だと思う場面は、愉快な場面だが、ドラマティック・アイロニーの典型である。こういった場面でもドニゼッティの筆は冴えわたっていて、例えばジャンネッタと村娘たちが、ネモリーノの相続の話は内緒よ(Non si dira', non si dira' と繰り返すところ)と言うあたり、どんどんクレッシェンドしていく。内緒と言いながら、あっという間に広まる噂というものを音楽が皮肉に表現している。
ストーリーの展開というものの性質上、当然なのだが、第二幕に入ってから二重唱の性格は複雑さを帯びる。だから初演の時には、第一幕の方が受けたのだろうが、この演目がレパートリーになって繰り返し観るようになれば、第二幕の複雑さに見どころ、聞きどころを見出だせるだろう。
ベルコーレとネモリーノの二重唱も、ネモリーノの必死な気持ちとベルコーレの半ば親切半ば恋のライバルを自分の支配下に置くという快感とがないまぜになった気持ちが、互いに平行線ですれちがっているのだが、そのすれ違い具合を見事に音楽が描写している。この気持のすれ違いであったり、ドラマティック・アイロニーの具合を、ドニゼッティの音楽は見事に表現する。とりわけ、木管楽器のフレーズ、音色がからかいの表情やコミカルな感じを巧みに表現するのである。
この日の指揮は、急に交代したせいか、テンポを動かしたときにややぎくしゃくしたところもあったが、上演を重ねると練れてくるかもしれない。アディーナは、ところどころやや過剰にロマンティクに歌うところがあったが素直な声。ドゥルカマーラはなかなか巧みでアディーナとの掛け合いは面白かった。ベルコーレは、あらためてむづかしい役だと認識した。キザなところがあり、完全な2枚めでもなく、だからといって3枚目でもなく、そこの塩梅を演技・声の表情であらわすのがむずかしい。おおいに健闘していたと思う。ネモリーノ、ジャンネッタも熱演であった。
 

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2018年3月12日 (月)

《イル・カンピエッロ》

ヴォルフ=フェッラーリのオペラ《イル・カンピエッロ》を観た(新国立劇場、中劇場)。

友人のE君のご厚意によりゲネプロを観ることができ、その後、8日に本公演を観た。
ゲネプロに行ってまず印象的だったのは、このところバロック音楽を聞き、ピリオド楽器に耳がなれているため、オーケストラの音がこれほど大きかったか、とびっくりしたことだった。金管楽器の音量、いや他の楽器も。人数はどちらも30数人くらいで、大差はないが、音量には体感的には相当差がある。
そのことは今回の上演に何も関係ないように思えるかもしれないが、僕の中ではそうでもなくて以下、バロック上演と比較しつつ心に浮かんだことを記す。
イル・カンピエッロというのはヴェネツィアの広場のことで、このオペラの原作はゴルドーニの18世紀の作品で、それを20世紀になって1930年代にマリオ・ギザルベルティが台本を書き、ヴォルフ=フェッラーリが曲をつけたわけだ。そのため、台本は18世紀のオペラ・ブッファ的な様相を呈しているところが多々あるし、作曲もそれを踏まえているところがある。しかし、その一方で、1930年代といえば、プッチーニやヴェリズモオペラの直後に来るわけで、このオペラにははっきり《道化師》のメロディーが露骨に引用される箇所がある。また、さほど深刻でない登場人物間の葛藤(ヤキモチ)に、重いシリアスな音楽が付されていたりする。それはヴェリズモオペラのパロディなのだと私は見た。
実際、そういった露骨なパロディではないところでも、フレーズの終わりの部分が妙に皮肉に嘲笑的な響きのするところは何度もあるのだ。
このオペラ、若い女性が3人、その母親3人(母親なのだが、3人のうち2人はテノールが歌う)、若い女性の叔父、若者2人と騎士で、登場人物が10人もいる。だから、ロッシーニの《ランスへの旅》と同様に、新人公演に向いているオペラだと思う。しかも、ソロのアリアだけでなくて、登場人物の重唱、あるいは、コンチェルタートのようになったりする。しかもそこで、ストーリーの展開上かなり身体的な動きがあるのだ。そういう意味でオペラ歌手として様々な能力を要求される役柄が何人も登場するわけだ。
その上、もう1つ難関なのは、ヴェネツィア方言である。ガスパリーナという女性はヴェネツィアで育ったのだが、ヴェネツィア訛りを治そうとして、過剰に訂正し、おかしな言語をしゃべる。
つまりヴェネツィア方言では標準イタリア語でツァ、ツィ、ツェなどと発音するところをサ、シ、セのようになってしまう傾向があるのを気にして、本来サ、シでよいものまでツァ、ツィに無理やりもどしてしまうので、ありえない発音が登場する。だから、最初、日本語字幕を見てもガスパリーナのイタリア語が聞き取れないところが多くあったのだが、歌手のせいではなく、そういう変な言語を話す登場人物であったのだ。
といったわけで、歌手は大雑把に言えばイタリア語であるが、細部においてはイタリア語からずれていく訛りを多分に含んだ発音に修正しなければならないわけで、そういった意味でも高度な訓練が必要になる演目だ。研修所の場合、立ち稽古になってからでも1ヶ月半の練習があるという話を小耳にはさんだ。現代の上演としては大変贅沢に時間を使っているわけで、無論それは大いに望ましいことであると思う。その結果として、さまざまなアンサンブルが聴き応えがある。
個々の歌手は、歌い込んだ成果が出ていたと思うが、声量には個人差がある。たとえば砂田愛梨(敬称略、以下同様)などはたっぷり響きわたり中劇場でなくても、大劇場でも十分な声量があるのではと感じた。声量に関して言えば、現代楽器のオケの大きさに釣り合う声量というのは大変なものなのだと思った。バロックやモーツァルトあたりまでは結構少人数のオケでも良いし、中小の劇場での上演が向くと思う。楽器でピリオド楽器と現代楽器にはそれぞれの良さがあるように、歌手の声量にも中小劇場向きに人と大劇場向きの人がいるのかもしれない。それは楽器の場合で明らかなように、必ずしも優劣ではないと思うのだ。日本でも、もっともっと中劇場、小劇場での上演が評価されて良いと思う。
柴田真郁の指揮は、軽妙なところ、シリアスなところを明確に振り分けて音楽の性格を聴き手にしっかりコミュニケートし好感が持てた。別の演目もぜひ聴いてみたい。粟國淳の演出は奇をてらわず、舞台上のドラマ展開が理解しやすくスッキリしており、かつ、コミカルなところはしっかり笑いのとれる洒落た演出。
ガスパリーナ 宮地江奈、ドナ・カーテ 水野優、ルシエータ 砂田愛梨、ドナ・パスクア濱松孝行、ニェーゼ 吉田美咲子、オルソラ 十合翔子、ゾルゼート 荏原孝弥、アンゾレート 氷見健一郎、アストルフィ 高橋正尚、ファブリーツィオ 清水那由太。
舞台衣装と舞台装置が調和がとれていてよかったし、歌手たちの仕草、身振りも個々の動き、アンサンブルとしての動き、めったに見られない高いレベルであったと思う。

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2018年3月 3日 (土)

フランコ・ファジョーリ・リサイタル

フランコ・ファジョーリのリサイタルを聴いた(カールスルーエ、州立劇場、大ホール)。

伴奏はイル・ポモドーロ。この日のイル・ポモドーロはフルで16人。曲によって木管がいなくなったりするので15人や14人の時もある。オケはピットではなく舞台に乗っており、弦楽奏者はイスなしで立って演奏するスタイル。ただし、チェロは座っている。
オケはファジョーリの後ろにというか、彼を取り囲むように配置される。
このオケとファジョーリの息の合い方は尋常ではない。と言っても固苦しくピタッと合っているというのではなく、一緒に体を揺らしながらノっていく感じで、ヘンデル・ゾリステンの奏者たちと比較するとより若々しいというか、ポップな感じである。
イル・ポモドーロとファジョーリの共演で聞くヘンデルは、昨日までの《セメレ》、《アルチーナ》と通じる世界であるはずなのだが、ある意味では別天地であった。ファジョーリは、曲のフレージングのレベルではなく、装飾音の隅々までコントロールしており、イル・ポモドーロもファジョーリのビブラート、装飾音の早さ、リズムに合わせて合奏するのだ。だからファジョーリはアリアの途中で歩き回ってコンサート・ミストレス(兼指揮者)の傍によっていったり、他の奏者の傍によってアイコンタクトをとったりするのが自然に思えてくる。ファジョーリはタキシードの上着のようなへちま衿でラメの入ったジャケット、 ノーネクタイで登場。
曲目だが、最初はオケのみで《セルセ》の序曲。次が《ジュリオ・チェーザレ》の 'Presti omai l'Egizia terra',  《イメネオ》の 'Se  potessero i sospiri miei' そして《オレスト》の'Agitato da fiere tempeste' . 静かな曲ではじめ、《オレスト》の曲は超絶技巧たっぷりのエクサイティングな曲。
超絶技巧のところでもファジョーリとイル・ポモドーロは息がぴったり合い、目線を交わしたりして楽しそうに演奏している。何かジャズの即興の掛け合いを想起させる感じだ。歌がこう来るなら、こう応じよう、それにまた歌が反応してと。無論、歌の表情、喜び、悲しみ、怒りといったものは歌もオケも十全に表現し、その上で、音楽的な喜びが横溢しているのである。リズムやテンポも柔軟に伸び縮みするのだが、それが自然でかつ歌手・奏者がバラバラにならないという奇跡的なレベルの高さ。唖然とするほかはない。聴衆もこれまでのこの劇場で聞いたことのないほどブラボーや拍手が熱い。ファジョーリは過去にもカールスルーエでオペラに出演したり、リサイタルを催しており、彼らの心をつかんでいるのだろう。
次はコンチェルト・グロッソ作品6No2だったが、正直に言って、この曲がこれほど面白い曲であるとはこの日はじめ気がついた。第一ヴァイオリンから第二ヴァイオリンへ、同じ旋律が受け渡される時にも、装飾音がつく小技があるからというだけでなく、そこでのチェロの動きが実に弾むリズムで二人のやり取りを活性化している。彼・彼女らは実に体がよく揺れる。音楽が体から溢れてきて嬉しくて仕方がないという感じ。こちらも楽しくなってくる。ああ、これがヘンデル的喜びだ、バロック的快楽だ、と思う。二番目のラルゲットは特に見事であった。
再びファジョーリが登場して《パルテノぺ》の'Ch'io parta' ,《時と悟りの勝利》の'Come nembo he fugge col vento' 。後者がやはり超絶技巧の曲で聴衆を熱狂させ、休憩へ。
あっという間に1時間が経過した。
後半はまず《アルチーナ》の’Mi lusinga il dolce affetto'. 出だしは、つい先日観たばかりの演目なのでああ、あの曲という感じだったが、途中から違う曲のような気さえしてくる。声の震え、ビブラートをどこまでかけるかかけないか、までがコントロールされ、無意味になんとなく流しているところが無い。音楽的な表情は考え尽くされ、吟味し尽くされ、その上で、即興性を持っている。だから、完成度が高いのに、堅苦しくは無い。 指先まで神経の行き届いた体操選手、フィギュアスケートの選手を思わせなくも無い。ヘンデルを奏でる美しさ、音楽的喜びが一方にあって、同時に、人間はここまで声を、声の表情をコントロールできるのかという感嘆がある。
《忠実な羊飼い》の’Sento brillar nel sen'がまたまた超絶技巧で会場は興奮の渦。ヒューと口笛を鳴らす人、ブラボー、拍手、拍手。
シンフォニアHWV338は初めて聞く曲だった。会場の酔い覚まし。
《アリオダンテ》の'Scherza in fida’。これ以上やったらやりすぎかも、という寸前まで悲しみの表情が濃い。恋人に裏切られて死にたいという曲だから、表情の濃さは必然性があるのだが。ファジョーリといえども、コンサートの出だしとこのあたりでは明らかに声の出方が違っている。体があったまって?どんどん声が出てくるようになる。響きも豊かになり、声のプレゼンスが強くなる。そこにあらゆるテクニックを柔軟に駆使して切々と悲しみの歌が繰り広げられるのだから、皆ノックアウト。
最後は《セルセ》のシンフォニアと 'Crude furie degli orridi abissi' で、このエクサイティングなアリアで最後にオケがジャンジャンとやるところではファジョーリは足を二度踏み鳴らした。思わず出たのかいつもやっているのかは不明。だが、会場はもう熱狂して、スタンディング・オベーション。全員が立って割れるような拍手、ブラボー。
アンコールの一曲目は《セルセ》の'Se bramate d'amar chi vi sdegna'.  お客の興奮は冷めやらず、アンコール二曲目は《リナルド》の'lascha ch'io pianga' で、驚いたことに、何度か冒頭のメロディーを歌ってまたそのメロディーが帰ってくるところで聴衆に向かって大きく両腕を開き、さあ皆さん歌ってというジェスチャーをした。聴衆は’lascia ch'io pianga...'と歌って応えた。驚きに満ちた喜びの瞬間だった。ファジョーリ、エンターテイナーだなあ。
最後は《セルセ》のオンブラ・マイ・フ。静かな曲だが、もちろん、皆満足。
《セルセ》からのアリアが多いが、来年カールスルーエでファジョーリは《セルセ》を演じるから、ということがある。
オペラの全曲上演というのはもちろん素晴らしいし贅沢な経験で、筆者はリサイタルよりはそちらを好んでいるのだが、今回の経験では、通常の自分の価値観をひっくり返されてしまった。俗な例えを許していただければ町の名店、あるいは1つ星の店で美味しいと思っていたのに、いきなり三ツ星レストランを経験してしまった驚き。音楽的な贅沢にも上には上があるものだ。
ということを言った上で、実演にこれから初めて接する方に過剰な期待を抱かせてはいけないと老婆心ながらいくつか書いておくと、ファジョーリはカウンターテナーなので声の大きさそのものは圧倒的ではない。これはバルトリなどもそう。ファジョーリやバルトリよりも音量の大きな歌手はいくらでもいる。彼、彼女より上手い歌手は、レパートリーをバロック期に限ればいないと言っても過言ではない。最近は、カウンターテナーでもどんどん新しい人が出現しているし、レジネバのような女性歌手で驚異的なアジリタが歌える人が出てきて嬉しい限りである。ファジョーリの発声方は独特で、ビブラートのかかり方も独特。通常、バロックものでビブラートがかかりすぎると嫌なのだが、彼のビブラートは不思議と心地良い。その発声法のせいで、子音は聞き取りにくい。つまり歌詞が聞き取りにくい点があるのは否めない。
しかし、そういうことは吹っ飛んでしまい、彼の歌の世界、イル・ポモドーロと一体化した音楽ワールドに連れ去られ、極上の喜びを味わった一夜であった。感謝、感謝、感謝。
そういえばこのコンサート、会場からダンケシェーン、グラツィエ、グラシアスと各国語でありがとうの声があがった。われわれは資本主義の世界にどっぷり浸って生きており、このコンサートもCDのプロモーションを兼ねているという。そういうことを知っていても、この場にいられた幸せ、彼の歌から得た喜びに感謝する気持ちを筆者も心から共有する。芸術やお祭りは時にわれわれを別の価値観の支配する世界に連れて行ってくれるのだ。そこから浮世に生きる勇気をもらっている人も少なくないだろう。

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2018年3月 2日 (金)

チェンバロ・リサイタル

Mahan Esfahani のチェンバロ・リサイタルを聴いた(カールスルーエ、クリストゥス教会)。

もともとはバロック・バイオリンのリサイタルの予定だったのだが、奏者の怪我のため、急遽チェンバロ・リサイタルに変更された。バイオリンでNichola Matteis, バッハの無伴奏、Heinrich Ignaz Franz Biber といった大まかに言えばヘンデルの同時代人の作品をバロックバイオリンで聞く(特にバッハは例えばグリュミオーのようなモダン・バイオリンの演奏とどう違うのか)のを楽しみにしていたのだが、怪我とあってはやむをえない。
Mahan Esfahani はテヘラン生まれで、英米で教育を受けた若手のチェンバリスト。最初はギボンズ(1583-1625)の Pavan。モンテヴェルディと同時代人になるわけだ。次のバッハと比較するとずっと音の数は少ないシンプルな組み立てである。次はJ.S.バッハのイギリス組曲4番BWV809. バッハの音の多さ、装飾音の多さ、装飾音が繰り返されつつ音階を上っていったり下がっていったりしてメロディと分離しがたいこと、左手もやはり和音を鳴らしつつ音階を上がり下がりしてどこまでが伴奏、どこまでがメロディとは切り離しがたいことを確認。ロマン派以降の音楽に比べて立体的、構築的であり、かつ豊穣で、ほとんど過剰なまでに華麗、壮麗でゴージャスな音が押し寄せてくるのであった。
Esfahaniは早めのテンポでグイグイ攻めるタイプ。チェンバロの強みだが曲の途中でレジスター(ストップ)を用いて音色を変化させられる。会場は教会で蓋も開けてあるので、華やかに反響がこだまするので音量に不満はない。音色を残響を多い方に持って行くか、スタッカート気味の方に持って行くか、またその中間かで音色が変化していく。
次は予定を変更してJiri Antonin Benda (1722-1795) のソナタ5(1757)。バッハやヘンデルとハイドンの中間。対位法的な部分はあるのだが、それが本格的に発展する前に断片で終わる感じ。そして再びバッハで、トッカータ BWV 912.  この曲は途中で何度も曲想が大きく変わる。それを空中分解させずに1つにまとめる技量に今更ながら感嘆する。
最後はラモー(1683-1764)の新組曲。有名な鶏の曲が含まれている。Esfahaniはこの曲をエレガントには弾かない。どんどんと前へ前へとのめりそうなくらいに弾き進める。その結果、普段ならラモーにほとんどロココ的な優雅さを感じたりするのだが、彼がバッハと同時代人であることを認識させられるような曲の印象を受けた。言ってしまえば無骨なラモーなのだが、そこで新たに見えてくるラモー像があり、これはこれで収穫だった。
 満場の拍手に応え、アンコールはまず、パーセルのグラウンドハ短調。彼はクロフト作と言う説もあるが、クロフトでなくパーセルだと確信していると言う意味のことを述べて弾いた。パーセルは1659-1695年なのでヘンデルやバッハの直前の世代ということになろう。そして最後がドメニコ・スカルラッティ。左右の手が忙しく交錯し、まるでリストを弾いているような名人芸でエクサイティングであった。
Esfahani の演奏は単に名人芸のひけらかしではなく、バロック時代のチェンバロをめぐる音楽言語がどういうものであったかのパースペクティヴを与えてくれるものだった。1時間半強で、休憩は無しの充実した時間であった。

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2018年3月 1日 (木)

《セメレ》その3

ヘンデルの英語オペラ《セメレ》を観た(カールスルーエ)。

今回、1階の3列目だったので、指揮者、オケ団員の様子がつぶさにわかる。《アルチーナ》の時との違いに幾つか気がついたので記す。
編成は《アルチーナ》の方が厚い。ヴァイオリン奏者の数も《アルチーナ》の時の方が多かった。また《アルチーナ》の時にはテオルボとリュート両方がいたが、《セメレ》ではテオルボのみだった。楽譜を確認していないが、おそらくは通奏低音に何と何を使用するかまではヘンデルは指定していないのではないか。だとすると、テオルボのみとテオルボとリュート両方を用いるかは指揮者の指示によるものなのだろうか。
さて以下、やや書きにくいことをあえて書く。《セメレ》では、アリアの後にほとんど拍手が起こらなかった。《アルチーナ》では度々あったのに。これはなぜか。念のために言えば、指揮者がアリアの後、間をおかずに次の曲に進むかどうかの差ではない。《セメレ》の第一幕では、特にテンポが遅く、全体の音の重なりが重く、心弾まないものだった。ヴァイオリン奏者にはくっきりと弾かせ、それが遅めのテンポで、曲の進行が止まりそうな時さえあった。その一方でチェロや通奏低音にはキューのような指示は出るが曲想、表情の指示はない。奏者も《アルチーナ》の時とはうって変わって、リズムを淡々と刻む機能に徹している。
テンポが遅めでイーノが歌うというのはどういう解釈なのか、理解に苦しむ。イーノは姉の婚約者アタナスに横恋慕しているので、姉の結婚を喜ばず、姉がジュピターとできてしまったことは密かに、ちゃっかりと喜んでいるはず。その上で、アタナスには、私、悲しいのとぶりっ子するのだが、そこをゆったりとまるでロマン派のように感情移入を求められても観客はしらけてしまうだろう。
この日のイーノ役、アタナス役の歌手の調子は良かったので、アリアの後、拍手が全く来ないのは気の毒であった。もうちょっとリズムが弾んで、ウィットに富む表情作りがあって、アップテンポだったら拍手喝采だったろうに、と思わずにはいられなかった。
第2幕、第3幕はやや改善はされたものの、前述の指揮者の音楽作りに阻まれて?ジュノーやジュピターの演技も含めた熱演にも拍手はまばら。セメレの歌手も声の調子も良く、もうちょっと音楽が弾めば、聴衆の喝采は間違いなしのいい曲をヘンデルは何曲も書いているのに。
さすがに、終演後は、皆さん惜しみない拍手を送っていました。
この日のみテオルボ付近にマイクを設営したらしく、第一幕で数回の大きなハウリングがあったのは残念だった。
繰り返して聞いてみれば、《セメレ》にも魅力的な音楽は沢山ある。演出だけがコミカルな今回の上演であったが、音楽にもその要素は含まれているので、それを反映した演奏を是非聞いてみたいものだ。

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