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2018年2月26日 (月)

《セメレ》その2

ヘンデルの英語オペラ《セメレ》を再び観た(カールスルーエ)。

2度目になると演出のあらましが既知のものとなる、つまり、手口がわかっているので細部まで理解できるようになるが、その結果、賛成できる点も増え、疑問点も増える。
 
しかし、一層、考え込んでしまったのは指揮についてなのでそれについて書く。《アルチーナ》でのオケがあまりに素晴らしかったので何が異なっているのか考えた。
1。当然だが曲が違うので、オーケストレーションも異なる。
 《アルチーナ》の方が木管も金管も種類が多く、華やかである。
2。曲想としても《アルチーナ》の方が、ダカーポアリアの中で、ABAあるいはABA' と言う構成でAとBがかなり大きなコントラストを見せることがままあり、変化、ヴァラエティに富んでいる。
と言うことを認めた上でなのだが、
 クリストファー・モウルズという指揮者の指揮ぶりの特徴とそのメリット・デメリットを考えてみたい。
3。彼の指揮は、なんというか隅々まで丁寧で手抜きがない。そういう指揮ぶりにありがちだが、テンポは全体に遅め。かつ、丁寧に一音一音を拾おうとするので、装飾音に勢いがない。テンポが遅くても早くても、弾まない、スイングしない。ピターっと楽譜に吸い付いて地に足がついてすり足で移動するようで、たまにはスキップしてみたら、と言いたくなる。
ヘンデルの曲は、緩急が適当に交代し、エキサイティングな速いテンポの曲があって、ふっとリラックスしたゆったりとした叙情的な曲が来たりするわけだが、このコントラストが特に第一幕では非常に弱かった(そのせいか、各アリアの後でも拍手がほとんどなかった)。
ひたすら生真面目ということと関連するのだろうが、第一幕のセメレとアタマスの破談にしても悲劇といえば悲劇なのだが、彼女が憧れているのはジュピターなので、なんというか笑える悲劇である。しかもセメレの妹のイーノはアタマスを狙っている。イーノの嘆きを、ロマン主義的にべたっと感情移入させるような調子で歌わせるのはどうかと思った。相当、皮肉が効いていてニヤニヤして聞けば良い場面だ。実際、演出(演出家の解釈がいつも正しいというつもりはないけれど)は、そういうくすぐりを何箇所にも入れていて、本作品の場合、それが全く理にかなった解釈だと思う。
 18世紀という時代、その文学の傾向、そしてそれを音楽的にどう表現するか、という点で大いに疑問が残る演奏(指揮)だった。
 ただし、こういうタペストリー的(メリハリの効いた指揮を絵画的とすると)な指揮のメリットもあって、オーケストレーションは隅々までわかる。ヘンデルは同じ音形の伴奏が繰り返されることがしばしばあるが、同じように丁寧に演奏するので、いやでも耳に残る。
 ジュノーとセメレのベッドシーンで二人が興奮している(はずの)場面など、もっとアップテンポでなければ。興奮したら、脈拍が速くなるのであり、音楽のテンポは自然に速くなるものだ。各アリアの後にほとんど拍手が入らなかったのは、歌手の力量不足という面よりも、指揮によるテンポやリズム、スイング感のなさで、ノレないからだったと思う。
 大きな拍手はセメレの長いアリアでアジリタを披露した曲のみだった。
 オケは《アルチーナ》の時と全く同じなので、躍動感とか、弾むリズムを表現できないオケでは決してないのは言うまでもないことだ。曲にとって、歌手にとって、勿体ない場面がいくつもあった。オケに対しては惜しみない拍手。

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