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2017年9月21日 (木)

《タメルラーノ》 その2

ヘンデルのオペラ《タメルラーノ》を観た(ミラノ・スカラ座)。

同じメンバーの2回目である。
今回は大幅にPAの問題が解消されて、大いに歌唱を堪能することができた。をやはり声は音量より生の声のキメの細かさである。それでこそ、声の表情の変化も微細な部分がわかる。
ただし、オケのチェンバロ(3台使用)とリュートやテオルボにはマイクが入るようになっていた。個人的には、このオケのPAも最小にしてくれたらと思った。会場は静かに演奏に聴き入っているのだから。古楽器(ピリオド楽器)の音色の繊細さは、どうしても何割か損なわれてしまう。
演出は、リヴァモアで、この人の演出は漫画的というか劇画的というか、アニメ的な感覚を豊かに持っている。大体のところ、この歴史上のティムール(タメルラーノ)を9月革命とスターリンの時代に置き換え、アンドロニコがトロツキーとかいうものであるが、序曲で人を殺した後、死者も起き上がり、後ろ向きに走って行ったりする。また、戦闘で敵を刺すとストップモーションで時が止まったりする。この設定の大枠はなんということはないし、タメルラーノが歌っている時に、周りで男女がセクシュアルな動きをしているのも無視しうるもので良かった。余計な動きで歌に集中できないのは、僕にとっては好ましくないのだが、だんだん修行が出来てきたのか、目に入らなくなっている(決して聖人君子ぶっているのではありません。オペラにおいては、音楽に集中したいし、リブレットの記述を原則として尊重して欲しい、そうでない場合には単なる思い付きではなく、その作品の理解に新しい光をあてるものであって欲しいということです)。
この日は総裁が出てきて、タメルラーノ役のベジュン・メータが風邪をひいてしまい絶好調ではないが治療により出演はできることがアナウンスされた。確かに、特に前半、丁寧な歌い回しで、弱音も効果的に用いて、強さで圧倒するという風ではなかったが、それはそれで味があったと思う。
アンドロニコのファジョーリはこの日も好調であったが、舞台を動いても音色が変わってしまわないので安心して聞けた。生声で聞いた場合に、メータのストレートな声とファジョーリの柔らかいビブラートのかかる声の対象は劇的にも効果的である。
アステリアのスキアーヴォは、様式感としては文句ないのだが、この日の聴衆からの拍手が意外なほど少ない。その理由を考えてみた。ソプラノとしては、スカラ座の聴衆が聞き慣れているヴェルディ歌手、プッチーニ歌手に比べ声量が小さい。その一方、メータやファジョーリのような超一流のカウンターテナーと比較するとアジリタ(細かい装飾音)がそれほど華麗ではない。パリのオペラ座(ガルニエ)で経験したような様式感の統一感を破壊することはなかったので個人的には満足していたので、スカラ座の聴衆の評価は厳しいと思った次第である。
ちなみに、初日はなぜかアメリカ人の聴衆が多かったのだが、2回めの上演では地元の?イタリア人が多かった。そのせいか、ドミンゴに対する拍手も礼儀正しいものであったが、熱狂的なものではなかった。ドミンゴが心を込めて歌っているのはわかるのだが、ダカーポ・アリアでABA'のA'の部分では装飾音をかなりつけて歌うのが普通だが、そこの妙技においてはドミンゴには苦しいところがあったと思う。
レオーネ役のバスは若い人なのだが、やはりアジリタの部分が平板で単に音を出しているだけでそこに表情がない。そのため、レオーネの2つのアリア、特に2番目のアリアは傑出した劇的な表情を持ったアリアなのだが、その曲のキャラクターを活かしきれていなかった。
とは言うものの、全体としては生声が安定的に聞こえ(厳密に言うと舞台前方で音を拾う箇所が一箇所あったが)声の饗宴としてずっとずっと初日より堪能することができた。
この日もファゾリスは1幕終了時に、スコアを高々と上げたし、カーテンコールの時にも舞台上にスコアを持って行って掲げた。やはり、スカラ座でヘンデルのオペラを上演することに最大の意義があるのだ、という主張であろう。
 
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