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2017年9月 4日 (月)

《フィガロの結婚》

モーツァルトのオペラ《フィガロの結婚》を観た(プラハ、スタヴォフスケ劇場)。

素晴らしい上演だった。素晴らしい理由は沢山あるし、それらが相乗効果を上げている面もあったので1つ1つのべよう。劇場が素晴らしい。世界初演ではないが、1787年の1月に自らの指揮でこの劇場でフィガロを上演している。
世界初演は周知のごとくヴィーンで1786年5月、プラハでの初演は同年の12月で、ヴィーンで以上にプラハでフィガロは喝采を浴びたのだった。ヴィーンの貴族達の方がフィガロに見られる反貴族的な要素を含む自由思想の危険性に敏感であったのだろう。
その劇場で観られる幸せは、たとえこの劇場の観客が自分を含め観光客の比率が国民劇場より高いとしても、それを上回るものがある。
この日の指揮はロベルト・ジンドラ。ピリオド奏法を少し取り入れ、軽やかに進み、必要に応じて金管楽器も強調するとこは強調するという最近のトレンドが巧みに消化されている。ここで重要かつ良かったのは、ケルビーノの2つのアリアと伯爵夫人の嘆きのアリアを情緒纏綿と歌わせなかったこと。単独のリサイタルであればともかく、この作品の様式からは節度を持って様式感を保つことが肝心で、ケルビーノのStanislava Jirku も伯爵夫人のPavla Vykopalovaもその点良かったし、そのことは作品全体につながっていく。
この日の演奏は休憩を入れて3時間半を切っていた。つまり演奏自体は3時間ほど。1幕2幕をつなげて演奏、休憩があって、3幕、4幕はつなげて演奏。これは良い。ケルビーノや伯爵夫人のアリアの細部で感情移入をたっぷりしてしまうと、4幕で演奏者も聴衆も息切れして、だれてしまう。フィガロは4幕がつまらないという人が多いのは、作品自体の責任も少しはあるかもしれないが、むしろ演奏スタイル、全体の構成への配慮への欠如が響いていたのだと思う。この日の演奏では4幕も相当いい線いっていたと思う。つまり第4幕まで、スピード感を持ってだれない、観客を疲れさせない、さらにはここから戸外なので戸外での場面の転換をどう演出するかというチャレンジが演出家に課されている。演出が頑張るべきなのはここだ。第一幕、第二幕はだれがどうやっても面白い。4幕はリブレットでも(原作でも)、場の転換が多く、細切れなのである。フィガロの上演で最もチャレンジのしがいのあるところだろう。
その前提条件としてここまでの演奏時間を短く、休憩は一度というのは大いに賛成である。
 ジンドラの指揮の良いところは、《フィガロ》は音楽が流麗で上品なため、つい忘れそうになることもあるが、冒頭から性愛に関する駆け引き、ゲーム、それを突き抜ける愛といった要素に満ちていて、登場人物の心、あるいは登場人物間には、かなり激しい感情が渦巻いている。スザンナが伯爵に狙われていると聞いたフィガロは激しい嫉妬を感じるし、伯爵は伯爵で自分のことは棚に上げ、ケルビーノと伯爵夫人の仲に激しく嫉妬する。こういった例が果てしなく連続して出てくるがロマン派以降の音楽と違って、感情表現には節度が必ず伴う。
節度のあるなかで、モーツァルトのオーケストレーションは、この上なく巧みにその葛藤を表現している。最近の演奏スタイルの変化により、登場人物が単にエレガントに歌っているのでなく、葛藤を抱えている面がはっきり感じられるようになってきてドラマとして見ごたえがある。
ジンドラの指揮はまさにそういうものだった。
伯爵のVladimir Chmeloはベテランで、特に重唱でもはっきり言葉が聞こえ、演技も含め音楽的にもツボを抑えていた。
伯爵夫人は程よく品があり、ケルビーノはかなり演技もさせられていたが歌も演技もしっかりこなしていた。フィガロのMilos Horak も良かった。口跡も良い。スザンナも伯爵夫人とのコントラストをうまく作っており、声も軽く、スザンナらしかった。
全体として非常に満足度が高く、良い演奏というものはそういうものだが、《フィガロの結婚》はなんと隅々までよく出来た作品なのだろうと感嘆につぐ、感嘆を感じずにはいられなかった。

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