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2017年9月15日 (金)

《タメルラーノ》

ヘンデルのオペラ《タメルラーノ》を観た(ミラノ、スカラ座)。

今の時期(9月)のオペラは特別なのかと思ったら、プログラムを見ると2016・17年のシーズンは昨年の12月から今年の11月まであるのだった。以前は5月くらいでシーズンは終わっていたと思うが、スカラ座に限らずオペラをめぐる財政が厳しくなり(国からの補助金の削減など)、上演回数や期間を増やすという方向できているのだと思う。
ただし、今回のヘンデルの上演はいろいろな意味で特別なのかと思う。オーケストラも、指揮のファゾリスの解説によれば、スカラ座のメンバーの一部がピリオド楽器を持ち、それとファゾリスの元々のバロック音楽のオケ(バロッキスティ)の混成ではないかと思われる。
スカラ座で本格的なバロックオペラを上演したのは記憶にないので(去年、ファゾリスがヘンデルのオラトリオ《時と悟りの勝利》を上演しているし、オラトリオ《ヘラクレス》が1958年にオペラ化して衣装もつけてコレッリ、バスティアニーニ、シュワルツコップなどの超豪華メンバーで上演されたことはある)、画期的なことだと思う。
イタリアにおける、そして世界のオペラ界におけるスカラ座の地位、注目度を思えば、画期的なことであるし、ファゾリスもそのことを強く意識していると見えて1幕の終わりにスコアを高々と掲げて見せたし、カーテンコールでもスコアを持って登場し、スコアを掲げて強調していた。つまり、通常のオペラの上演は、レパートリーのものであれば、その曲(たとえば《椿姫》や《トスカ》)を上演すること自体は、ありふれたことなわけで関心は自ずと歌手の出来栄えや演出、指揮などに向くことになろう。
しかし、今回は何より、スカラ座でヘンデルのオペラが演奏会形式などではなく、ピリオド楽器も使って本格的に上演されることが画期的なことなのだと言いたいのだろうし、そのことには全面的に賛意を表したい。演奏もオーケストラも、主要歌手も、ドミンゴの特別出演的な登場を除いては様式的な統一感もあって、極めて高いレベルの上演であった。
この日の歌手はタイトル・ロールのベジュン・メータ、アンドロニコのフランコ・ファジョーリというカウンターテナー界の大スター2人を揃えたばかりか、テノールからバリトンへと音域を超越しさらにはレパートリーも融通無碍な、批評を超越したプラシド・ドミンゴがバジャゼ役を演じた。女性歌手は、アステリアがマリア・グラツィア・スキアーヴァ。18世紀ものを歌っている人で文句なし、イレーネ役のマリアンヌ・クレバッサも好演。レオーネ役のバスのクリスティアン・センは最低域が響かない点が惜しかったが、着実な歌唱。
といった個々の歌手の問題よりずっと大きな問題が実はある。
PAというか、スピーカ使用の問題である。
オペラは大原則として生の声を聞かせるものだ(劇場では)。
おそらくは最大の要因は、ピリオド楽器の音量が相対的に小さいということにあるのだと思う。確かにリュートやチェンバロの類の撥弦楽器は音量は小さいし、他の楽器もモダン楽器と比較すれば小さめであることは確かだ。
加えて、カウンターテナーの声量も、一般的に言えば、音域はソプラノやメゾソプラノであるが女性のソプラノやメゾと比較すると音量は小さめであることが多い。
どこまで意図的かはわからないが、結果的に言うと観客から見て舞台右手半分ではマイクが音声をひろい歌謡ショーのようになる。左手または舞台奥になると生声が聞こえると言う感じで、舞台中央がなぜかものすごくマイクをひろい違和感があった。
筆者は平土間の15、6列あたりで聞いた(見た)のであるが、序曲が終わってファジョーリとドミンゴの歌唱が舞台中央で始まった時、自分の耳がおかしくなったかと思ったが、PAが入っているせいだと納得した。
せっかくのピリオド楽器も、スピーカーを通してではその繊細な表情が何割か損なわれる。また歌手もファジョーリのように独特のビブラートがメロディーライン及び装飾音のニュアンスの構築に大きくものを言っている場合、生音の時には微細な表情がよく分かるのだが、PAが入るとビブラート自体が濁ってしまうのが残念なのだった。ドミンゴは一部を除きほぼしっかりP
Aが入ってるところで歌っていたのは年齢その他を考えると致し方ないところか。
一曲のアリアの中で歌手が右から左、あるいは左から右に移動すると、大きく声質が変わる(つまりPAの効果がオンになったりオフになったりする)のが聞いていて無駄にハラハラするのだった。
去年のパリのオペラ座(ガルニエ)でのカヴァッリの《エリオガバロ》でもオーケスオトラはPAの響きが気になったが歌手の声に関してはあまり拾っていなかったように感じたが、筆者は最前列及び3列目で聞いたのでそのせいなのか、あるいはマイクの設定の仕方が異なっていたせいなのかは断言できない。
ヘンデルの曲は最高なのだ。《ジュリオ・チェーザレ》が書かれた時期であり、どの登場人物にも、あるいはアンドロニコとアステリアの二重唱も聴きどころの連続で、音楽的に退屈するところがない。モーツァルトの4大オペラに比肩しうる面白さではないか。
しかも歌手の質は高いのだ。ベジュン・メータは絶好調で、聞き覚えのない華やかなアリアを歌う場面もあって、CDなどでカットされた曲なのかと思ったら、プログラムを読んで謎が氷解。バロックの時代にはaria di baule  (カバンに入ったアリア、おハコのアリア)というのを歌手は持っていて、誰のオペラでも勝手に自分の得意のアリアを挿入することが習慣的にあったのだが、その例にならって原曲にないアリアを歌ったのであった。メータは、PAの響く領域で歌うことが最小限で、しかも声が通るのである。声質がファジョーリと異なるのも
演劇的なキャラクターの描き分けという点で好ましいと感じた。メータはビブラートが少ないストレートな響きなのだ。
ヘンデルをザルツブルクのモーツァルトホールやグラインドボーンでの上演で観た時にはPA問題はなかった。どちらもスカラ座やパリのオペラ座(ガルニエ)と比較してはるかに小ぶりである。これはつまり、どういうサイズ、収容人数のホール、劇場でバロック・オペラを上演するかという問題をはからずも提起していることになるだろう。楽器に関して言えば、たとえば現代楽器のピリオド奏法という手もあるかもしれないが。。。極めて悩ましい問題ではある。大劇場でもますますバロックオペラを上演してほしい一方で、中劇場以下の方が音響的には好ましいと思わざるをえない。個人的には、オーボエやトランペットの古楽器の響きはヴァイオリンのみならず古楽器ならではの響きと感じる。この日のアンドロニコとアステリアの二重唱でもオーボエが大活躍していたし、メータのおハコのアリアではトランペットが活躍していたのだった。

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