« 《ドン・ジョヴァンニ》 | トップページ | 《ルクレツィア・ボルジア》 »

2017年9月 2日 (土)

《リア》

ライマン作曲のオペラ《リア》を観た(ザルツブルク、フェルゼンライトシューレ劇場)。

岩肌の見える劇場である。このオペラは演出が作品を引き立てる近年珍しい例だと思った。
原作はシェイクスピアの『リア王』である。ストーリーはほぼ原作に沿っている。この話、リアルな部分と、おとぎ話的に寓意的な部分が同居している。最初の領土の分け方からしてそうで、コーディリアが父王リアへの愛情を全く表現しない、できないというのも極端なら、今まで何年接してきたのかリアもコーディリアの性格を分かりそうなものだが、リアはコーディリアの沈黙に憤激して、何も言わぬなら何もやらん、と言って領土を全くやらない。
このリアの極端な態度を諌める忠臣ケント伯は追放してしまう。
舞台は細長くしつらえてあり、舞台の奥にも観客が配置されている(実は第二部になるとここにエキストラ的出演者が仕込まれているのだと判明する)。その舞台は草と花が敷き詰められていて、領土分割の際にはリアが足元の草、花、土を掴み取って話を進めるのだ。
ライマンの音楽は、いかにも20世紀半ばの現代音楽的響きを持っているが、メロデイー的要素に乏しく、オーケストレーションも打楽器炸裂プラス不協和音が繰り返され、変化や色彩感に欠けるうらみ無しとしない。むろん、フルートの特殊な音色、音程があって和楽器のように響いたりする部分はウィーンフィル奏者の妙技が冴えて感心させられる部分もあるのだが。
第二部でゴネリルとリーガンの姉妹の権力争いとなってからは、グロスター伯が目をえぐられるだけでなく、後部の座席の観客がゲシュタポのような手下に引っ立てられて一人一人顔に血を塗られ床の血糊へ倒され「処刑」されていく。
果てしない権力闘争が、果てしない血、処刑を招く様をまざまざと見せつける演出で、不協和音、打楽器炸裂の音楽の必然性を少しは納得するのであった。
最終場面になると紗がかかって玄妙な味わいとなり、コーディリアとリアの和解と死がこれまでとは全く相貌を異にする音楽を伴って現れる。死とともにではあるが、一筋の救いのようなものを感じさせないでもないのだった。
指揮はヴェルザーメスト。リアはジェラルド・フィンリーで見事であった。

|

« 《ドン・ジョヴァンニ》 | トップページ | 《ルクレツィア・ボルジア》 »

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)


コメントは記事投稿者が公開するまで表示されません。



トラックバック


この記事へのトラックバック一覧です: 《リア》:

« 《ドン・ジョヴァンニ》 | トップページ | 《ルクレツィア・ボルジア》 »