« 2017年8月 | トップページ

2017年9月21日 (木)

《タメルラーノ》 その2

ヘンデルのオペラ《タメルラーノ》を観た(ミラノ・スカラ座)。

同じメンバーの2回目である。
今回は大幅にPAの問題が解消されて、大いに歌唱を堪能することができた。をやはり声は音量より生の声のキメの細かさである。それでこそ、声の表情の変化も微細な部分がわかる。
ただし、オケのチェンバロ(3台使用)とリュートやテオルボにはマイクが入るようになっていた。個人的には、このオケのPAも最小にしてくれたらと思った。会場は静かに演奏に聴き入っているのだから。古楽器(ピリオド楽器)の音色の繊細さは、どうしても何割か損なわれてしまう。
演出は、リヴァモアで、この人の演出は漫画的というか劇画的というか、アニメ的な感覚を豊かに持っている。大体のところ、この歴史上のティムール(タメルラーノ)を9月革命とスターリンの時代に置き換え、アンドロニコがトロツキーとかいうものであるが、序曲で人を殺した後、死者も起き上がり、後ろ向きに走って行ったりする。また、戦闘で敵を刺すとストップモーションで時が止まったりする。この設定の大枠はなんということはないし、タメルラーノが歌っている時に、周りで男女がセクシュアルな動きをしているのも無視しうるもので良かった。余計な動きで歌に集中できないのは、僕にとっては好ましくないのだが、だんだん修行が出来てきたのか、目に入らなくなっている(決して聖人君子ぶっているのではありません。オペラにおいては、音楽に集中したいし、リブレットの記述を原則として尊重して欲しい、そうでない場合には単なる思い付きではなく、その作品の理解に新しい光をあてるものであって欲しいということです)。
この日は総裁が出てきて、タメルラーノ役のベジュン・メータが風邪をひいてしまい絶好調ではないが治療により出演はできることがアナウンスされた。確かに、特に前半、丁寧な歌い回しで、弱音も効果的に用いて、強さで圧倒するという風ではなかったが、それはそれで味があったと思う。
アンドロニコのファジョーリはこの日も好調であったが、舞台を動いても音色が変わってしまわないので安心して聞けた。生声で聞いた場合に、メータのストレートな声とファジョーリの柔らかいビブラートのかかる声の対象は劇的にも効果的である。
アステリアのスキアーヴォは、様式感としては文句ないのだが、この日の聴衆からの拍手が意外なほど少ない。その理由を考えてみた。ソプラノとしては、スカラ座の聴衆が聞き慣れているヴェルディ歌手、プッチーニ歌手に比べ声量が小さい。その一方、メータやファジョーリのような超一流のカウンターテナーと比較するとアジリタ(細かい装飾音)がそれほど華麗ではない。パリのオペラ座(ガルニエ)で経験したような様式感の統一感を破壊することはなかったので個人的には満足していたので、スカラ座の聴衆の評価は厳しいと思った次第である。
ちなみに、初日はなぜかアメリカ人の聴衆が多かったのだが、2回めの上演では地元の?イタリア人が多かった。そのせいか、ドミンゴに対する拍手も礼儀正しいものであったが、熱狂的なものではなかった。ドミンゴが心を込めて歌っているのはわかるのだが、ダカーポ・アリアでABA'のA'の部分では装飾音をかなりつけて歌うのが普通だが、そこの妙技においてはドミンゴには苦しいところがあったと思う。
レオーネ役のバスは若い人なのだが、やはりアジリタの部分が平板で単に音を出しているだけでそこに表情がない。そのため、レオーネの2つのアリア、特に2番目のアリアは傑出した劇的な表情を持ったアリアなのだが、その曲のキャラクターを活かしきれていなかった。
とは言うものの、全体としては生声が安定的に聞こえ(厳密に言うと舞台前方で音を拾う箇所が一箇所あったが)声の饗宴としてずっとずっと初日より堪能することができた。
この日もファゾリスは1幕終了時に、スコアを高々と上げたし、カーテンコールの時にも舞台上にスコアを持って行って掲げた。やはり、スカラ座でヘンデルのオペラを上演することに最大の意義があるのだ、という主張であろう。
 
_

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2017年9月15日 (金)

《タメルラーノ》

ヘンデルのオペラ《タメルラーノ》を観た(ミラノ、スカラ座)。

今の時期(9月)のオペラは特別なのかと思ったら、プログラムを見ると2016・17年のシーズンは昨年の12月から今年の11月まであるのだった。以前は5月くらいでシーズンは終わっていたと思うが、スカラ座に限らずオペラをめぐる財政が厳しくなり(国からの補助金の削減など)、上演回数や期間を増やすという方向できているのだと思う。
ただし、今回のヘンデルの上演はいろいろな意味で特別なのかと思う。オーケストラも、指揮のファゾリスの解説によれば、スカラ座のメンバーの一部がピリオド楽器を持ち、それとファゾリスの元々のバロック音楽のオケ(バロッキスティ)の混成ではないかと思われる。
スカラ座で本格的なバロックオペラを上演したのは記憶にないので(去年、ファゾリスがヘンデルのオラトリオ《時と悟りの勝利》を上演しているし、オラトリオ《ヘラクレス》が1958年にオペラ化して衣装もつけてコレッリ、バスティアニーニ、シュワルツコップなどの超豪華メンバーで上演されたことはある)、画期的なことだと思う。
イタリアにおける、そして世界のオペラ界におけるスカラ座の地位、注目度を思えば、画期的なことであるし、ファゾリスもそのことを強く意識していると見えて1幕の終わりにスコアを高々と掲げて見せたし、カーテンコールでもスコアを持って登場し、スコアを掲げて強調していた。つまり、通常のオペラの上演は、レパートリーのものであれば、その曲(たとえば《椿姫》や《トスカ》)を上演すること自体は、ありふれたことなわけで関心は自ずと歌手の出来栄えや演出、指揮などに向くことになろう。
しかし、今回は何より、スカラ座でヘンデルのオペラが演奏会形式などではなく、ピリオド楽器も使って本格的に上演されることが画期的なことなのだと言いたいのだろうし、そのことには全面的に賛意を表したい。演奏もオーケストラも、主要歌手も、ドミンゴの特別出演的な登場を除いては様式的な統一感もあって、極めて高いレベルの上演であった。
この日の歌手はタイトル・ロールのベジュン・メータ、アンドロニコのフランコ・ファジョーリというカウンターテナー界の大スター2人を揃えたばかりか、テノールからバリトンへと音域を超越しさらにはレパートリーも融通無碍な、批評を超越したプラシド・ドミンゴがバジャゼ役を演じた。女性歌手は、アステリアがマリア・グラツィア・スキアーヴァ。18世紀ものを歌っている人で文句なし、イレーネ役のマリアンヌ・クレバッサも好演。レオーネ役のバスのクリスティアン・センは最低域が響かない点が惜しかったが、着実な歌唱。
といった個々の歌手の問題よりずっと大きな問題が実はある。
PAというか、スピーカ使用の問題である。
オペラは大原則として生の声を聞かせるものだ(劇場では)。
おそらくは最大の要因は、ピリオド楽器の音量が相対的に小さいということにあるのだと思う。確かにリュートやチェンバロの類の撥弦楽器は音量は小さいし、他の楽器もモダン楽器と比較すれば小さめであることは確かだ。
加えて、カウンターテナーの声量も、一般的に言えば、音域はソプラノやメゾソプラノであるが女性のソプラノやメゾと比較すると音量は小さめであることが多い。
どこまで意図的かはわからないが、結果的に言うと観客から見て舞台右手半分ではマイクが音声をひろい歌謡ショーのようになる。左手または舞台奥になると生声が聞こえると言う感じで、舞台中央がなぜかものすごくマイクをひろい違和感があった。
筆者は平土間の15、6列あたりで聞いた(見た)のであるが、序曲が終わってファジョーリとドミンゴの歌唱が舞台中央で始まった時、自分の耳がおかしくなったかと思ったが、PAが入っているせいだと納得した。
せっかくのピリオド楽器も、スピーカーを通してではその繊細な表情が何割か損なわれる。また歌手もファジョーリのように独特のビブラートがメロディーライン及び装飾音のニュアンスの構築に大きくものを言っている場合、生音の時には微細な表情がよく分かるのだが、PAが入るとビブラート自体が濁ってしまうのが残念なのだった。ドミンゴは一部を除きほぼしっかりP
Aが入ってるところで歌っていたのは年齢その他を考えると致し方ないところか。
一曲のアリアの中で歌手が右から左、あるいは左から右に移動すると、大きく声質が変わる(つまりPAの効果がオンになったりオフになったりする)のが聞いていて無駄にハラハラするのだった。
去年のパリのオペラ座(ガルニエ)でのカヴァッリの《エリオガバロ》でもオーケスオトラはPAの響きが気になったが歌手の声に関してはあまり拾っていなかったように感じたが、筆者は最前列及び3列目で聞いたのでそのせいなのか、あるいはマイクの設定の仕方が異なっていたせいなのかは断言できない。
ヘンデルの曲は最高なのだ。《ジュリオ・チェーザレ》が書かれた時期であり、どの登場人物にも、あるいはアンドロニコとアステリアの二重唱も聴きどころの連続で、音楽的に退屈するところがない。モーツァルトの4大オペラに比肩しうる面白さではないか。
しかも歌手の質は高いのだ。ベジュン・メータは絶好調で、聞き覚えのない華やかなアリアを歌う場面もあって、CDなどでカットされた曲なのかと思ったら、プログラムを読んで謎が氷解。バロックの時代にはaria di baule  (カバンに入ったアリア、おハコのアリア)というのを歌手は持っていて、誰のオペラでも勝手に自分の得意のアリアを挿入することが習慣的にあったのだが、その例にならって原曲にないアリアを歌ったのであった。メータは、PAの響く領域で歌うことが最小限で、しかも声が通るのである。声質がファジョーリと異なるのも
演劇的なキャラクターの描き分けという点で好ましいと感じた。メータはビブラートが少ないストレートな響きなのだ。
ヘンデルをザルツブルクのモーツァルトホールやグラインドボーンでの上演で観た時にはPA問題はなかった。どちらもスカラ座やパリのオペラ座(ガルニエ)と比較してはるかに小ぶりである。これはつまり、どういうサイズ、収容人数のホール、劇場でバロック・オペラを上演するかという問題をはからずも提起していることになるだろう。楽器に関して言えば、たとえば現代楽器のピリオド奏法という手もあるかもしれないが。。。極めて悩ましい問題ではある。大劇場でもますますバロックオペラを上演してほしい一方で、中劇場以下の方が音響的には好ましいと思わざるをえない。個人的には、オーボエやトランペットの古楽器の響きはヴァイオリンのみならず古楽器ならではの響きと感じる。この日のアンドロニコとアステリアの二重唱でもオーボエが大活躍していたし、メータのおハコのアリアではトランペットが活躍していたのだった。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2017年9月 9日 (土)

《魔笛》

Image result for stavovské divadlo,zauberflote

magic-fluteモーツァルトのオペラ《魔笛》を観た(プラハ、スタヴォフスケ劇場)。

これは演奏自体も演出もチャレンジングで大いに刺激を受けたし、そこから曲の出来の素晴らしさにあらためて深く感銘を受けた。
シカネーダのリブレットに対して安易に悪口を言う人が多いように思うが、魔笛、魔法の笛というところから自明なように、この話はそもそもがリアリズムとは縁がない。タミーノはいきなり大蛇に襲われるわけだし、それを夜の女王の3人の侍女が救うわけだ。
 つまり表面的なストーリーと並行してどういう寓意、象徴を読み解けるかが問われているようなドラマである。
今回の上演では幾つかの大胆な試みがある。
1つは、序曲で幕が上がる前からモーツァルト(あるいはシカネーダ?)らしき人物がいる。彼はいわゆるモック役で歌いはしないのだが、ただし通常のモック役と異なるのは、魔笛は周知の通りジングシュピールでセリフのところがレチタティーヴォのように伴奏がつかず、全く純粋にセリフである。そこを歌手(例えばタミーノ)がドイツ語で話すとモーツァルトらしき人物がチェコ語(だと思う)で話すのである。なぜチェコ語と判断したかというと、アリアの部分では字幕がチェコ語と英語が表示されているのだが、セリフの部分では英語のみになってしまうからだ。
ジングシュピールでのセリフの処理はいろいろあって、そのまま全部ドイツ語でやり、字幕で現地の言語を示す場合、セリフのところだけ現地語(日本なら日本語)にして字幕を読む手間を省くやり方があるが、この日のはモーツァルトらしき人物がチェコ語(現地語)で語ると云う新しいパターン、工夫であった。これは欠点としてはセリフが二回になるのでちょっともたもたする。
舞台装置はボッシュがモダンになったようなシュールな書き割りが降りてきたり、上っていったりする。タミーノが18世紀の貴族(プリンス)風と云う以外はほぼ劇画調のファンタスティックな衣装。もう1つの工夫として、3人の童子が出てくる場面があるが、この日の上演では3人の少女となっていた。最初に出てくる夜の女王の部下3人とは明らかに外見も声質も違う少女性を持った3人であった。それが確保されていれば、少女ということに抵抗は感じなかった。声質が異なることは重要で、彼ら(彼女ら)は、パミーナが絶望して自殺しようとするときにもそれはいけないと声をかける。3人の少女が最初に登場したときに、一人は天使のような羽をつけていたが、これは1つの興味深い解釈であろう。3人の童子は、単なる子どもではない可能性があり、なんというか通常の意識で語る人と人とのコミュニケーションではなくて、意識を超えたところから聞こえてくる声なのかもしれない。
声質と役柄、およびそのキャラクターの関係は重要で、夜の女王の超絶的高音も、音楽的には超絶技巧ということになるが、もう1つ重要な意味として、彼女の言葉は、日常の意識のレベルの言語でないということを意味している可能性があるだろう。彼女が母として娘の幸せを願いながら、一方で娘を徹底的に支配し、他者の介入を許すまいとする強烈な欲望、これはどこからくる声なのか。魔笛は、おとぎ話的な話だが、おとぎ話や昔話によくあるように、アレゴリカル(寓意的)な読みを可能とするストーリーでもある。
そういう意味で、ザラストロが最も低い音を出すということにも、深層意識の声という意味合いがある。フロイトやユングが出てくる前から、民話やおとぎ話は寓意的であったのであり、表面的なストーリーと内面の葛藤を同時に表現するストーリーは珍しいものではなかった。
しかし、19世紀後半からリアリズムや自然主義にあまりに毒されてしまうと、表面的なつじつまが合わないことに目くじらをたてる人も増えてきて、魔笛のリブレットは不当に低く評価されてきたと思う。
しかし、良い演出に当たると、実によくできたリブレットだということがわかるのではないか。 この日の演出は、Vladimir Moravek. 賛否両論はっきり分かれる人という紹介がプログラムにある。
指揮者Jaroslav Kyzlinkは、前半ものすごくテンポが早かった。単にテンポが早いだけでなく、フレーズの終わりで一息つかせない。休符が何割か短くなる感じなのだ。夜の女王の部下の3人は最初のうちはこの疾風のようなテンポについて行きかねるところがあったが、そういうときに、指揮者が全くテンポを緩めないので、諦めてというか適応して(さすがプロ)徐々にこのテンポに合わせてテキパキ歌っていた。グロッケンシュピールのところでもこんなに早い演奏は聴いたことがない。しかしそのおかげで、7時開始、一回休憩で9時半には終わってしまうのだった。現代のほとんどの映画が2時間あるいは2時間弱であることを考えると、この時間配分は優れているとも言える。純粋に音楽的に考えても、細かいニュアンスにとらわれすぎずに、前へ前へと推進力のある音楽が流れ続けるのも良いモーツァルトである。その分、集中力が後半まで持続する。無論、それだけが今日的モーツァルトというつもりはないが。
この日の演奏は、《ドン・ジョヴァンニ》、《フィガロ》の時と異なり客席とオケピットとの境目にある壁が取り払われていた。指揮者は、客が出入りするところから登場した。数えてみるとオケの人数も35人くらいいて前の2演目より人数が明らかに多くなっていた。
歌手は、タミーノが貫禄で声も立派だった。パミーナは金城由紀子さん。パミーナらしい清涼感のある歌を聴かせてくれた。夜の女王は、二つのアリアでいづれも超高音をしっかり決め、また衣装も派手やかで若々しくよかった。リブレットに関して述べたこととも関係してくるが、私の考えでは、夜の女王はパミーナの母ではあるのだが、リアリスティックにそういう年齢を感じさせる必要はないと思う。むしろ、何歳かわからない、若々しく見える方が良いと思う。
ザラストロは逆である。歌手として何歳でも良いが、賢者にふさわしい貫禄、年齢を感じさせる風であることが望ましいだろう。
リアリスティックな年齢ではなくアレゴリカルな年齢を感じさせてほしいのだ。
そういう意味で声質は重要だ。
歌手の配役は、以下の通り。
タミーノ Jaroslav Brezina
パミーナ 金城由紀子
夜の女王 Jana Sibera
ザラストロ Jiri Sulzenko
パパゲーノ Jiri Bruckler なかなか溌剌としていてよかった。
パパゲーナ Lenka Pavlovic

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2017年9月 4日 (月)

《フィガロの結婚》

モーツァルトのオペラ《フィガロの結婚》を観た(プラハ、スタヴォフスケ劇場)。

素晴らしい上演だった。素晴らしい理由は沢山あるし、それらが相乗効果を上げている面もあったので1つ1つのべよう。劇場が素晴らしい。世界初演ではないが、1787年の1月に自らの指揮でこの劇場でフィガロを上演している。
世界初演は周知のごとくヴィーンで1786年5月、プラハでの初演は同年の12月で、ヴィーンで以上にプラハでフィガロは喝采を浴びたのだった。ヴィーンの貴族達の方がフィガロに見られる反貴族的な要素を含む自由思想の危険性に敏感であったのだろう。
その劇場で観られる幸せは、たとえこの劇場の観客が自分を含め観光客の比率が国民劇場より高いとしても、それを上回るものがある。
この日の指揮はロベルト・ジンドラ。ピリオド奏法を少し取り入れ、軽やかに進み、必要に応じて金管楽器も強調するとこは強調するという最近のトレンドが巧みに消化されている。ここで重要かつ良かったのは、ケルビーノの2つのアリアと伯爵夫人の嘆きのアリアを情緒纏綿と歌わせなかったこと。単独のリサイタルであればともかく、この作品の様式からは節度を持って様式感を保つことが肝心で、ケルビーノのStanislava Jirku も伯爵夫人のPavla Vykopalovaもその点良かったし、そのことは作品全体につながっていく。
この日の演奏は休憩を入れて3時間半を切っていた。つまり演奏自体は3時間ほど。1幕2幕をつなげて演奏、休憩があって、3幕、4幕はつなげて演奏。これは良い。ケルビーノや伯爵夫人のアリアの細部で感情移入をたっぷりしてしまうと、4幕で演奏者も聴衆も息切れして、だれてしまう。フィガロは4幕がつまらないという人が多いのは、作品自体の責任も少しはあるかもしれないが、むしろ演奏スタイル、全体の構成への配慮への欠如が響いていたのだと思う。この日の演奏では4幕も相当いい線いっていたと思う。つまり第4幕まで、スピード感を持ってだれない、観客を疲れさせない、さらにはここから戸外なので戸外での場面の転換をどう演出するかというチャレンジが演出家に課されている。演出が頑張るべきなのはここだ。第一幕、第二幕はだれがどうやっても面白い。4幕はリブレットでも(原作でも)、場の転換が多く、細切れなのである。フィガロの上演で最もチャレンジのしがいのあるところだろう。
その前提条件としてここまでの演奏時間を短く、休憩は一度というのは大いに賛成である。
 ジンドラの指揮の良いところは、《フィガロ》は音楽が流麗で上品なため、つい忘れそうになることもあるが、冒頭から性愛に関する駆け引き、ゲーム、それを突き抜ける愛といった要素に満ちていて、登場人物の心、あるいは登場人物間には、かなり激しい感情が渦巻いている。スザンナが伯爵に狙われていると聞いたフィガロは激しい嫉妬を感じるし、伯爵は伯爵で自分のことは棚に上げ、ケルビーノと伯爵夫人の仲に激しく嫉妬する。こういった例が果てしなく連続して出てくるがロマン派以降の音楽と違って、感情表現には節度が必ず伴う。
節度のあるなかで、モーツァルトのオーケストレーションは、この上なく巧みにその葛藤を表現している。最近の演奏スタイルの変化により、登場人物が単にエレガントに歌っているのでなく、葛藤を抱えている面がはっきり感じられるようになってきてドラマとして見ごたえがある。
ジンドラの指揮はまさにそういうものだった。
伯爵のVladimir Chmeloはベテランで、特に重唱でもはっきり言葉が聞こえ、演技も含め音楽的にもツボを抑えていた。
伯爵夫人は程よく品があり、ケルビーノはかなり演技もさせられていたが歌も演技もしっかりこなしていた。フィガロのMilos Horak も良かった。口跡も良い。スザンナも伯爵夫人とのコントラストをうまく作っており、声も軽く、スザンナらしかった。
全体として非常に満足度が高く、良い演奏というものはそういうものだが、《フィガロの結婚》はなんと隅々までよく出来た作品なのだろうと感嘆につぐ、感嘆を感じずにはいられなかった。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2017年9月 3日 (日)

《ローエングリン》

ヴァーグナーのオペラ《ローエングリン》を観た(プラハ、国民劇場)。

これもやはり劇場が目当てで来た。日本で調べた時には、9月の頭にはまだシーズンが開幕していないという情報があったのだが、現地に来てみるとスタヴォフスケも国民劇場もどちらも開幕に出くわすことができて幸運であった。
国民劇場は川のほとりにある。チェコ人がチェコ語のオペラをやるために建てたのだが、今となってはドイツ語のヴァーグナーを上演しても良いのだろう。英語では National Theatre でプラハにはもう一つ英語で言うとState Opera 国立オペラ劇場があるから、ちょっと紛らわしい。こちらは元々はドイツ劇場と呼ばれていたとのこと。
国民劇場は外観も立派で、内装も金色に輝き壮麗である。人数も多く入り19世紀のオペラ(ヴァーグナーを含め)の上演に向いているだろう。個人的にはスタヴォフスケこそ世界的なレベルで見て珠玉の劇場だと思うが、プラハの人々のチェコ人としての誇りは国民劇場にあるのかもしれない。
《ローエングリン》はヴァーグナーの中ではまだ聴きやすいとされているが、中途半端とも言える。アリアのように詩の形で簡潔に話しをまとめてくれないから、散文的な話がだらだらと続き、長いと感じるが、ヴァーグナーが好きな人はそこがいいのかもしれない。
指揮はズビニェク・ミュラー。誠実な指揮ぶりで、よく言えばスレてない、オーソドックスで、悪く言えば、刺激がなく、どういうヴァーグナーをやりたいのか主張が感じられない。ロマン派の音楽の演奏は、現在とても難しいところに来ていると思うが、そういう危機感がなく、素直に演奏しているといった体であった。演出も読み替えなどはなく、オーソドックス。歌手もレベルが揃っていた。
スタヴォフスケ劇場と国民劇場を連日で聞いてみると、つくづくヴァーグナー歌手は大変だと思う。あんなにオーケストラが咆哮する中(18世紀には考えられないような音量) で大声を張り上げなければならないのだから。当然、細かな表情やリズム、場合によっては音程も繊細な注意を払うことが難しいこともままありそうだ。小ぶりの劇場で歌う場合と同じ基準で評価しては気の毒というものだろう。しかしその一方で、小ぶりの劇場での細かな表現を味わい知ってしまえば、どこかでそれと比べてしまう自分もいる。
自動車でも、小型のスポーツカーで小回りが利き、加速よしブレーキよしといった車と、大型バス、大型トラックのど迫力はカテゴリーが異なるわけで、ヴァーグナーは後者なわけですね。絵画でも、トスカナのフラ・アンジェリコやレオナルドは線の描きかた(あるいは描線を見せなくするところまで)が繊細だが、ヴェネツィア絵画になると、繊細さよりも、巨大な絵画で量感で見るものを圧倒する。
グールドがバッハの演奏を革新したように、ヴァーグナー演奏を革新する人は現れるだろうか。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2017年9月 2日 (土)

《ルクレツィア・ボルジア》

ドニゼッティ作曲のオペラ《ルクレツィア・ボルジア》を演奏会形式で聞いた(ザルツブルク、祝祭大劇場)。

演奏自体は大変充実したものだったので、せめてセミステージで最小限の装置と衣装付きであればと思わずにはいられなかった。
なんども毒殺とか解毒剤とかが出てきたり、反ボルジアの集団が全部ドアを閉めて逃げ出せぬようにするなど、舞台効果のありそうな場面には事欠かない。
ここからはプログラムに掲載されたフランチェスコ・イッツォ氏の解説を適宜要約していく。リブレット(台本)はフェリーチェ・ロマーニによるもの。原作はユゴーなので、ついヴェルディの《リゴレット》と比較したくなるわけだが、リゴレットの原作『王はお楽しみ』の初演がコメディ・フランセーズで1832年11月、ヴェルディの《リゴレット》は1851年初演。それに対し、ユゴーの『リュクレース・ボルジア』の初演がポルト・サン・マルタン劇場で1 833年2月2日、それから1年経たぬうちにフェリーチェ・ロマーニとガエターノ・ドニゼッティは1833年の12月26日にミラノでカーニバルシーズンの幕開けでの初演に間に合わせた。
フェリーチェ・ロマーニがフランスの劇場で上演される作品に注目していたのは確かだが、この作品の場合はどうもフランスのソプラノ歌手アンリエット・メリク=ラランドに促されたらしい。彼女は1820年代にベッリーニの作品を創唱(初演)し、ドラマティックな歌唱でスターになった。彼女はミラノ・スカラ座の1833・34年のオープニングを歌うことになっていたが、当初予定されていたメルカダンテの《サッフォー》がお気に召さなかったらしい。彼女は当時、影響力が強く、ギャラも作曲家の10倍近かったという。
ロマーニとドニゼッティは《愛の妙薬》と同じカップルだが、この時もロマーニがよりクラシコな趣味で、ドニゼッティがよりロマンティックな傾向を持っていた。ドニゼッティはより激しい愛の物語を求めていたが、ロマーニは検閲に引っかからないか気にかけているといった具合である。
 実際、この物語には当時の検閲に触れそうなところがあるのだ。ルクレツィア・
ボルジアには隠し子がいて、幼い時にナポリの漁師に里子に出した。それがジェンナーロという若者なのだが、母子と知らずに出会って二人は恋に落ちる。
 ジェンナーロの友人、仲間たちは、ボルジアに親族を殺されたりして恨み骨髄である。ルクレツィアは、侮辱された仕返しにジェンナーロの友人たちを一網打尽に毒殺しようとするが、あろうことかジェンナーロもそこに加わっていた。ユゴーの原作では死にゆくジェンナーロがルクレツィアを殺したらしい。しかしロマーニはその部分を修正した。死にかけたジェンナーロがルクレツィアを殺そうとすると、ルクレツィアが私はあなたの母であなたもボルジアなのよと明かす。ジェンナーロは死に、ルクレツィアは彼の死体の上にくずおれる
 母殺しは王殺しと並んで検閲に引っかかるであろう。また、ルクレツィアは領主の妻でもあるからその点でも反逆の要素が強く、なかなかすんなりとはいかなそうな内容である(その分、今見ると面白いとも言えるのだが)。
 音楽は《ルチア》に似ている。ただし、ジェンナーロの友人たちが歌う場面がかなりあって彼らの重唱、合唱団の歌などなかなか重厚な響きを楽しめる。ジェンナーロのフローレスは様式感も歌唱も素晴らしい。ジェンナーロの友人オルシー二はズボン役でテレーサ・イェルヴォリーノがふくよかな声、すっきりとした歌唱スタイルでよかった。友人たちの中では、ガゼッラを歌ったバスのGleb Peryazev  に注目したい。声に張りがあり、体格も良く、リズム感も良く期待したい。タイトルロールのストヤノヴァはややロマンティックに過ぎると感じるところもあったが情感に溢れる歌を聴かせた。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

《リア》

ライマン作曲のオペラ《リア》を観た(ザルツブルク、フェルゼンライトシューレ劇場)。

岩肌の見える劇場である。このオペラは演出が作品を引き立てる近年珍しい例だと思った。
原作はシェイクスピアの『リア王』である。ストーリーはほぼ原作に沿っている。この話、リアルな部分と、おとぎ話的に寓意的な部分が同居している。最初の領土の分け方からしてそうで、コーディリアが父王リアへの愛情を全く表現しない、できないというのも極端なら、今まで何年接してきたのかリアもコーディリアの性格を分かりそうなものだが、リアはコーディリアの沈黙に憤激して、何も言わぬなら何もやらん、と言って領土を全くやらない。
このリアの極端な態度を諌める忠臣ケント伯は追放してしまう。
舞台は細長くしつらえてあり、舞台の奥にも観客が配置されている(実は第二部になるとここにエキストラ的出演者が仕込まれているのだと判明する)。その舞台は草と花が敷き詰められていて、領土分割の際にはリアが足元の草、花、土を掴み取って話を進めるのだ。
ライマンの音楽は、いかにも20世紀半ばの現代音楽的響きを持っているが、メロデイー的要素に乏しく、オーケストレーションも打楽器炸裂プラス不協和音が繰り返され、変化や色彩感に欠けるうらみ無しとしない。むろん、フルートの特殊な音色、音程があって和楽器のように響いたりする部分はウィーンフィル奏者の妙技が冴えて感心させられる部分もあるのだが。
第二部でゴネリルとリーガンの姉妹の権力争いとなってからは、グロスター伯が目をえぐられるだけでなく、後部の座席の観客がゲシュタポのような手下に引っ立てられて一人一人顔に血を塗られ床の血糊へ倒され「処刑」されていく。
果てしない権力闘争が、果てしない血、処刑を招く様をまざまざと見せつける演出で、不協和音、打楽器炸裂の音楽の必然性を少しは納得するのであった。
最終場面になると紗がかかって玄妙な味わいとなり、コーディリアとリアの和解と死がこれまでとは全く相貌を異にする音楽を伴って現れる。死とともにではあるが、一筋の救いのようなものを感じさせないでもないのだった。
指揮はヴェルザーメスト。リアはジェラルド・フィンリーで見事であった。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

《ドン・ジョヴァンニ》

モーツァルト作曲の《ドン・ジョヴァンニ》を観た(プラハ、エステート劇場)。エステート劇場は、スタヴォフスケ劇場とも言うが、ここは周知のごとく、モーツァルト自身の指揮でこのオペラが初演された劇場である。

91日が2017/18年のシーズンの開幕であった。お目当ての指揮者や歌手や演出家があったのではなく、お目当ての劇場があって来たのだ。素晴らしい劇場である。内装が美しいだけでなく、サイズが小ぶりでモーツァルトにふさわしい。歌手が声をはりあげることにエネルギーの多くを奪われることがない。オーケストラも25人ほど。空間が大きすぎないから、これで必要にして十分。楽器や奏法の細部がどうのということはさておき、この空間でこんな風に鳴っていたのだと納得。

指揮者ヤン・ハルペツキーも、オケもこの曲をやり慣れていて、歌手のテンポやリズムが多少乱れても(歌手は結構演技をするのでそういう時が出てくるのもやむをえないかと)全く引きずられることはなくがっちりサポート。

演出はなかなかモダンで、歌手も所々バレエ的な所作をする。殺された騎士長は最後の場面以外にも時々舞台に登場し、ドン・ジョヴァンニの悪行をはたで見ている。ツェルリーナ(金城由紀子さん、ネットで調べると2012年よりプラハ国民劇場専属歌手とのこと)は、相当大胆にセクシーな身振りをさせる。具体的には、長めのスカートは履いたまま、赤いパンティを脱いだり、また履いたりする仕草が見られ、ツェルリーナの性愛が受け身一方ではなく、アクティヴに働く様を可視化しているのだった。

楽曲的に意外だったのは、ドン・ジョヴァンニの地獄落ちで終わりなこと。残された全員の重唱がない。この最後の6重唱をカットしたのはプラハ初演の後の、ウィーン初演での上演

であったらしい。モーツァルト自身の上演に両方の形があったこと自体が大変興味深い。

 

| | コメント (0) | トラックバック (0)

« 2017年8月 | トップページ