《デイダミーア》
ヘンデルのオペラ《デイダミーア》を観た(東京文化会館小ホール)。
セミステージで、バロック劇場の装置を模したように襖のような装置が何枚かある。衣装はドレスを着て、バロックジェスチャーにのっとった動き。バロックジャスチャーは、様式美があり、ヘンデルの音楽に合う。オケは弦、木管、金管合わせて13人ほど。小ホールだとこれで十分の人数であり音量だ。
歌手も声を大きく張り上げることに注力する必要が相対的に小さいし、オケに埋もれてしまう心配もほぼない。ヴァイオリン、ヴィオラ、チェロ、コントラバス、チェンバロの他にオーボエ、ファゴット、そして金管のトランペットとホルンがいたので音色の変化に欠けるところは全くなかったし、原雅巳氏の指揮、コンサート・ミストレスのリードよくキビキビとした音楽とゆったりとしたところでは表情豊かな細かい味わいを享受することができた。
この日のホルンはナチュラルホルン(ピストンがない)で音程はピストンが無い分、不安定になりがちだが、音色は独特のものがあり、ナチュラルホルンの音色はピリオド楽器によくマッチすると感じる。
ストーリは、バロックのオペラではままあることだが、トロイ戦争をめぐる話が元になっている。長い長い話の中でこの《デイダミーア》で扱われているのは、ある1つのエピソードだ。すなわち、アキッレ(将来の英雄)が生まれた時に、アキッレが参加しないとトロイ戦争に勝てないが、アキッレは戦場で死ぬ、という予言がなされた。そのため親は、スキュロス島のリコメーデ王にアキッレを預け、アキッレは念を入れて女の子として育てられる(女装している)。トロイで苦戦しているギリシア軍は、ウリッセ(オデュッセウス)とフェニーチェ(アルゴスの王子)を派遣して、この島にアキッレがいるのではないかと探らせる。リコメーデ王は否定するのだが、ウリッセが一計を案じて、狩をするのだが、お礼の品を持ってくるとデイダミーア(リコメーデの娘でアキッレの恋人)やその友人は宝飾品に目がいくのだが、アキッレは女装しているけれど、剣やカブトに夢中で正体がバレる。この正体がバレる場面は、つい最近まで気がついていなかったのだが、様々な画家が絵画の主題として描いている。
ヘンデルはこの場面、つまりアキッレがギリシアの勇者として祖国を守る戦いに行くぞ、という音楽と、それを聞いてデイダミーア(出征したらどういう運命が待ち受けているか知っている)が悲しむ音楽、そしてウリッセがこれは運命のなせるわざなのだと感慨を漏らす音楽、三者三様なのだが、この3つの音楽が明らかにこのオペラのクライマックスである。
ここでアキッレを歌ったのは民秋理(敬称略、以下同様)は、女性歌手であるが、男が女装しているという感じをストレートな歌いまわしに実によく表現していて見事だった。それを受けて悲しみを表出するデイダミーアの藤井あやは、前述のようにバロックジェスチャーにのせて悲しみを音楽的表情豊かに歌い上げるのだが、決してロマン派風にはならず典雅な歌に心うたれた。それに続くウリッセは佐藤志保で、声はやや細身であったが歌のスタイルは様式感を保っていた。
デイダミーアの親友ネレーアを歌った加藤千春の歌、演技も好演であった。ネレーアの部分はデイダミーアとはほぼ対照的で後のオペラブッファにつながって行くようなユーモラスな場面や歌が多いのだが、その性格を演技でも歌でも的確に表現していたので、デイダミーアとのコントラストが観客にもわかりやすく、それによって舞台・ドラマ自体の光と影がくっきりと浮かび上がるのだった。この上演では男性歌手はフェニーチェとリコメーデ、春日保人と藪内俊弥で、どちらも堂々たる歌。特にリコメーデはこの劇が単なる恋愛劇ではなく、政治的な劇(アキッレを参戦させたくない人と参戦させたい人の綱引き)の面があることを聴衆に示す役割を果たしており、そういった含蓄を歌に表現していた。
この上演はヘンデル協会によるもので、以前にこの作品にまつわるレクチャーなどもあったのだが、こうやって見てくるとこのオペラを恋愛ものと見ることも可能なのだが、同時に、アキッレやウリッセが、ヘンデル当時の誰を表象しているのかという政治的な読みをすることも可能だろうと思う。これはレクチャーで三ケ尻正氏が解説していた通りである。
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