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2016年11月 1日 (火)

《ドン・パスクワーレ》

ドニゼッティのオペラ《ドン・パスクワーレ》を観た(琵琶湖ホール)。

沼尻竜典指揮(敬称略、以下同様)、日本センチュリー交響楽団。タイトルロールは牧野正人。医師マラテスタ須藤慎吾, ノリーナ砂川涼子、エルネストはアントニーノ・シラグーザ。砂川涼子はコミカルだったり、ずる賢かったり、ちょっと意地悪だったりするノリーナを巧みに演じ、歌いこなしていた。シラグーザは別格の歌。

《ドン・パスクワーレ》というのはかなり妙な曲想のオペラである。一応はオペラ・ブッファに分類できるのだが、ブッファというにしては哀愁にみちた曲、シリアスな曲想が相当に多いのである。また、ストーリ的にも、従来のお金または権力をもった年寄りを若者カップルが出し抜くというパターンを踏襲しながらも、終わり方があまりに唐突で、しかも年寄りに対する説教が長々続き、終わり方がカラっとしないのである。

同じ作曲家の《愛の妙薬》と比べると好対照をなしていると思う。ネモリーノにも「人知れぬ涙」という哀愁を帯びた曲があるがこれはオペラ全体の後半に出てくる。前半はひたすら明るいのだ。しかし《ドン・パスクワーレ》のエルネストは最初から、ノリーナと別れねばならないと嘆くのだが、その嘆きにコミカルな要素は全くない。あるいは、なんとか今の境遇を跳ね返す策略を思いつくぞといった意気込みもないのだ。オペラ・ブッファとしては妙な曲想なのである。

エルネストだけではなく、ドン・パスクワーレの歌もそうだ。彼が結婚したいと思い、友人の医師に紹介される娘は実はノリーナなのだが、医師マラテスタは自分の妹で修道院にいた世間知らずの無垢な娘だと言って紹介し、ドン・パスクワーレはそれをすっかり信じ込む。といった具合なので、ドン・パスクワーレがたとえば《セビリアの理髪師》のドン・バルトロみたいにやっつけてやれ、という存在になりきっていないし、実際に、ノリーナに平手打ちをくらったあとのドン・パスクワーレには観客の同情が集まるようなしんみりとした音楽が流れる。

むろん、これはドニゼッティがそういう類の音楽をわざわざ選んでいるのである。そういったわけで、このオペラは単に歌うということに技巧を要するだけでなく、人物造形をどうするか、という演技や性格・表情の歌いわけの課題が歌手にのしかかる。指揮もそうである。全体をどうとらえるかがとてもやっかいだ。

こうした独自性の強い複雑な性格のオペラを実演で観られてよかった。その経験を基準に、過去のCDやDVDを観ると、さまざまな役作り、表情づくりがあることがよくわかった。

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