« 2016年9月 | トップページ | 2017年1月 »

2016年11月 1日 (火)

《ドン・パスクワーレ》

ドニゼッティのオペラ《ドン・パスクワーレ》を観た(琵琶湖ホール)。

沼尻竜典指揮(敬称略、以下同様)、日本センチュリー交響楽団。タイトルロールは牧野正人。医師マラテスタ須藤慎吾, ノリーナ砂川涼子、エルネストはアントニーノ・シラグーザ。砂川涼子はコミカルだったり、ずる賢かったり、ちょっと意地悪だったりするノリーナを巧みに演じ、歌いこなしていた。シラグーザは別格の歌。

《ドン・パスクワーレ》というのはかなり妙な曲想のオペラである。一応はオペラ・ブッファに分類できるのだが、ブッファというにしては哀愁にみちた曲、シリアスな曲想が相当に多いのである。また、ストーリ的にも、従来のお金または権力をもった年寄りを若者カップルが出し抜くというパターンを踏襲しながらも、終わり方があまりに唐突で、しかも年寄りに対する説教が長々続き、終わり方がカラっとしないのである。

同じ作曲家の《愛の妙薬》と比べると好対照をなしていると思う。ネモリーノにも「人知れぬ涙」という哀愁を帯びた曲があるがこれはオペラ全体の後半に出てくる。前半はひたすら明るいのだ。しかし《ドン・パスクワーレ》のエルネストは最初から、ノリーナと別れねばならないと嘆くのだが、その嘆きにコミカルな要素は全くない。あるいは、なんとか今の境遇を跳ね返す策略を思いつくぞといった意気込みもないのだ。オペラ・ブッファとしては妙な曲想なのである。

エルネストだけではなく、ドン・パスクワーレの歌もそうだ。彼が結婚したいと思い、友人の医師に紹介される娘は実はノリーナなのだが、医師マラテスタは自分の妹で修道院にいた世間知らずの無垢な娘だと言って紹介し、ドン・パスクワーレはそれをすっかり信じ込む。といった具合なので、ドン・パスクワーレがたとえば《セビリアの理髪師》のドン・バルトロみたいにやっつけてやれ、という存在になりきっていないし、実際に、ノリーナに平手打ちをくらったあとのドン・パスクワーレには観客の同情が集まるようなしんみりとした音楽が流れる。

むろん、これはドニゼッティがそういう類の音楽をわざわざ選んでいるのである。そういったわけで、このオペラは単に歌うということに技巧を要するだけでなく、人物造形をどうするか、という演技や性格・表情の歌いわけの課題が歌手にのしかかる。指揮もそうである。全体をどうとらえるかがとてもやっかいだ。

こうした独自性の強い複雑な性格のオペラを実演で観られてよかった。その経験を基準に、過去のCDやDVDを観ると、さまざまな役作り、表情づくりがあることがよくわかった。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

レザール・フロリサン、《イタリアの庭でー愛のアカデミア》

ウィリアム・クリスティ指揮レザール・フロリサンの演奏会を聴いた(サントリーホール)。

演奏団体と曲目の関係が少しややこしいので簡単に説明しておこう。レザール・フロリサンは、指揮者クリスティが1979年に設立した声楽と器楽のアンサンブルである。
今回の上演演目は《イタリアの庭でー愛のアカデミア》と名付けられているが、特定の作曲家が作った単独の曲ではない。初期バロック(アドリアーノ・パンキエーリ、オラツィオ・ヴェッキ)からストラデッラ、そしてヘンデル、ヴィヴァルディ、そしてチマローザ、ハイドンへと至る一種のアンソロジーなのだが、そこに共通のテーマを一本走らせている。それが愛なのだが、愛のアカデミアとは何か。
オラツィオ・ヴェッキの曲が「シエナの夜会」という曲なのだが、シエナのアカデミア(知識人のクラブのようなもの)の集まりのために書かれ、デンマーク王クリスティアン4世に献呈された。
各作曲家の歌の歌詞は、愛の学校という性格を持つものと、叙事詩『オルランド・フリオーソ(狂えるオルランド)』に関わるものがよりあわさっている。オルランドも愛のためにおかしくなるのだから愛のテーマの変奏とも言えるのだが。
以上の説明からおわかりのように、もともとは独立した別々の曲を演奏者が関連付けるように編集して連続的に演奏しているのである。セミ・ステージの形式で、舞台には2つの階段のついたブロックがあり、そこを歌手が登ったり降りたり、腰掛けたりすることで登場人物的なニュアンスを醸し出していた。
愛のテーマが様々に繰り広げられるのも興味深いが、バロック音楽からチマローザやハイドンになると音楽の表情が変わるのも如実にわかって面白かった。そういう意味では音楽史を実感的に学ばせるプログラムとも言える。
楽しい愛の学校であった。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

ジャパン・オルフェオ

《ジャパン・オルフェオ》を観た(池袋・東京芸術劇場)。

これは不思議な作品である。モンテヴェルディのオペラ《オルフェオ》が本体なのだが、途中のところどころに雅楽や日本舞踊や能楽が挿入される。通常のオペラでこの類のことをやったならキッチュな感じはまぬがれないだろうが、このオペラではかなりの説得力を持っていたと思う。
というのも《オルフェオ》は、妻エウリディーチェが死んだのを嘆き悲しんだオルフェオが冥府を訪ねていく物語であるからだ。この世とあの世の中間地帯に行くときに雅楽が出てくるとこれまでの地上の音楽とがらっと変わるわけだが、この場合は地上の世界から異界(冥府)に赴く中間段階を表すしているのでまさに異界への入り口という説得力を持ちうるのだ。
日本舞踊や能役者の存在も同様で、通常の西洋的な人物の隣に着物姿の人物が出てきたら相当に違和感があると思うが、異界に赴いた人物として、あるいはバッコスの巫女としてならばそもそも通常の人物とは異なるわけだから、受け入れられるのだ。
歌手はオルフェオがバリトンのヴィットリオ・プラート。エウリディーチェは阿部早希子。音楽、希望はジェンマ・ベルタニョッリ。《オルフェオ》には登場人物として音楽や希望といったイデア的な人物が登場するのである。カロンテおよびプルトーネはウーゴ・グァリアルド。使者およびプロセスピナは、フランチェスカ・ロンバルディ・マッズッリで、女性陣は実に見事であった。ないものねだりだが、彼女らのような女性歌手が《エリオガバロ》においても歌ってくれたならと思わずにはいられなかった。
オルフェオは結局、冥府からの帰り道に振り向いてエウリディーチェを見てしまったために地上に一人寂しく帰ってくるのだが、ギリシア神話では彼は巫女たちに引き裂かれ死ぬ。オルフェオのリブレットにもそうあるのだが、その最後の部分にはモンテヴェルディは曲をつけていない。今回はそこに沼尻竜典氏が曲を付して女性合唱(アカペラ)で演奏された。これも興味深い試みであった。
アーロン・カルペネ指揮のオケも少人数だがレベルが高く、音楽的満足度の高い上演だった。休憩後から皇后様御来席であった。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

《トスカ》

プッチーニの《トスカ》を観た(パリ、バスティーユ)。

前項に記したように、パリのオペラ座には2つの劇場があって、バスティーユはあのフランス革命のバスティーユ監獄の跡地に建設され革命200年の1987に開場した劇場である。
20世紀後半の新しい劇場らしく中の雰囲気は、どこか空港のロビーを思わせる雰囲気だ。現代的。
トスカは、ハルテロス。カヴァラドッシがアルバレス。スカルピアがターフェル。演出は割合オーソドックスだったが、最後の場面がサンタンジェロ城ではなくて、郊外の野原のような場所になっていた。
カヴァラドッシを拷問する場面で、途中でトスカが「歌に生き、恋に生き」を歌っている間、部屋に相当する空間が壁に仕切られていて、その後ろをぐるっとまわってくるのはなかなか良い工夫だと思った。トスカの歌の間、スカルピアは手持ち無沙汰なのだから。
ハルテロスは声はとても通るしきれい。アルバレスも滑らかさもあるし、表情づけも見事だし、今本当に油がのりきっているのだと思う。ターフェルもいやらしい役柄を演じきっていた。
アルバレスはこの美声を通常のレパートリーだけでなく、意欲的なプログラムにもチャレンジしてくれればと思った。
指揮はエッティンガーで、テクスチャーの見通せる音作りだった。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

《エリオガバロ》

カヴァッリのオペラ《エリオガバロ》を観た(パリ、オペラ座ガルニエ)。

パリのオペラ座は2箇所あって、昔からオペラ座と言われていた方は、建築家の名をとってガルニエといい、新しい方は場所からバスティーユという。プログラムを見ると、演目名が並んでいて例えば《エリオガバロ》はガルニエで上演するが、《トスカ》はバスティーユで上演という具合だ。
オペラ座(ガルニエ)はナポレオン3世の時に建築が決定されたもので、建物はモニュメンタルに大きく、中は金ぴかというか絢爛豪華である。フォアイエも広い。
しかし、観客席はさほど多くはない感じだ。僕はたまたま指揮者の真後ろの席、補助席に座った。そのせいで、係りの人が指揮者の楽譜を持ってきた譜面が見えたのだが、バロックオペラでは珍しいことではないようだが、スコアと言ってもほとんどピアノ譜のようなもので、2、3段しかない。楽器の指定もない。
チェンバロが3台いて、リュートを弾く人が3人いた。リュートは向かって左に1人、右に2人なのだが、ちょっと複雑である。左の人は楽器を変えずリュートだけを引いていたのだが、右の2人はギターとリュートとテオルボ(大きなリュート)を何度も持ち替えていた。他にヴィオラ・ダ・ガンバもいて、この通奏低音奏者たちは指揮者に近いところをぐるっと囲んでいた。やや左奥に、ヴァイオリン。右奥にトランペット、その他の管楽器がいた。
もっと離れた席ではどう聞こえたのかわからないが、リュートがステレオで微妙にずれて聞こえてくるのは不思議な感じだった。彼ら(2人男で1人女)は細かいパッセージを奏でているが、直接楽譜にかかれているものではないのは、通奏低音の通例と言っても良いだろう。
指揮者が立っている時は譜面が見えないので確認はできなかったが、おそらくはあるメロディをヴァイオリンが弾いたり、管楽器が奏でたりするがその楽器指定は楽譜にあるのではなく、今回の楽譜を編纂した人、あるいは指揮者、あるいは奏者が選んだものではないかと思う。バロックの時代にはそれが通例だったようである。
カヴァッリの音楽は、モンテヴェルディ(カヴァッリはモンテヴェルディが楽長のもとでオルガニストを勤めていた)と比較すると、メロディが平らかで音楽の表情が穏やかで、どちらかというと旋律ラインをおぼえにくい。
演出は演劇やロックの演出をこれまでしてきたトマス・ジョリー。服装や舞台装置は蓋然的にローマ時代ということで違和感はなかったしレーザー光線の使用もなるほどというものだったが、レーザー光線の難点は、強い光なので目がくらんでしまいたとえばファジョーリの顔に金色の彩色がほどこされていたことが見えなくなってしまう、気がつかないということだ。あとでネットで画像を観て気がついたのである。ぼくの座席は一度目は最前列、二度目も10列以内だったから舞台から遠くはないので、遠いからではなく、まぶしい光のせいであったと思う。
歌手はタイトル・ロールがフランコ・ファジョリ。堂々たる舞台姿と歌であるが、曲自体にもっと超絶技巧を求める箇所があったらなどとないものねだりをしたくなる。アレッサンドロがポール・グリーヴズ。彼は、感情をこめて歌おうとする姿勢は悪くないのだが、時々音程が怪しいのがたまにキズ。ジュリアーノがサバドゥス。カウンターテナーで声量は大きくないがきれいな声で歌の様式にあう。それと対照的なのが女性歌手陣で、カウンターテナーと比較すると声は大きいのだが、歌の様式観に欠けるうらみがあるのだが、生身の女性が情感豊かに歌うと瞬間的にはカウンターテナーの歌を圧する感じになってしまうのだ。
今回の上演ではカウンターテナーは2人であったが、4人くらいカウンターテナーの方がよかったのではとも思えた。つまり女性役もカウンターテナーで歌の様式をそろえた方がよかったと思えた。女性歌手であれば、もう少しファジョーリやサバドゥスの歌と調和するような歌い方の歌手ならば、とも思ったが贅沢な要求かもしれない。
また、ガルニエの特性かもしれないが、歌手の声の反射音が聞こえず、すっと吸い込まれるようでカウンターテナーにとってはつらい劇場だろうと推察した。
しかしながら、メジャーな劇場では上演がまれなカヴァッリのオペラをシーズンのオープニングに持ってきたオペラ座の快挙は賞賛さるべきだと思う。ヨーロッパでは、ここまでバロック・オペラがオペラファンに浸透してきたのだとも言える。日本でも、来日歌劇場の演目、新国立の演目に変化が起こってもよいのではないだろうか。
 
 

| | コメント (0) | トラックバック (0)

« 2016年9月 | トップページ | 2017年1月 »