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2016年8月31日 (水)

司教の言葉

イタリアの地震について司教の言葉が注目を浴びている(RAI).

アマトリーチェで国葬が行われたが、リエーティのドメニコ・ポンピーリ司教が、「人々を殺したのは地震ではない、むしろ人々のなした仕業である」との言葉を発した。
建築物の手抜き工事のことに言及したものと思われ、RAI3の討論番組でもその責任をどうチェックすべきかということなどが議論されていた。また、地震からの再建の過程で、復興資金がマフィアに回る恐れが大きいということも議論されている。
聖職者が地震の犠牲者を人災だとこれだけ明確に指弾したのは稀なことではないかと思われる。
これだけ書くとひどいことばかりのようだが、当地における消防や警察、ボランティアの働きは賞賛されているし、2ユーロずつ寄付して連帯しようという運動、アマトリチャーナを食べて寄付しようという運動も盛り上がりを見せており、RAI3の討論番組に出ていたダーチャ・マライーニも、イタリアの人々の素晴らしさを賞賛した上で、しかしながら、建物が責任を持って作られていれば、死ななくて良かった人がいることを考えると断腸の思いであり、その責任の所在を明らかにすべきだとしていた。

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Il templario 3

オットー・ニコライのオペラ《Il templario》を聞いた。2度目である。(ザルツブルク祝祭大劇場)。

舞台で観るのは初めての演目(と言っても演奏会形式だが)だったので、二回目でようやく理解できた部分もあった。
指揮に関しては不満は残った。ベルカントオペラ的な曲想のところで全く軽さがなく、オケをフォルテで鳴らしまくる。テンポがあまりにも遅く、音楽の推進力が枯渇するところがなんどもあった。
レベッカ役の女性歌手はよく歌っているのだが、アジリタにやや難があった。
ブリアーノ役のルカ・サルシが健闘。フローレスは前回よりも、力強く声を張り上げて、圧巻。
チェドリーコやグランド・マスター役も良かった。低声がこれだけ充実しているのは頼もしい。
このオペラには二重唱、三重唱の掛け合いが何箇所かあるのだが、そこでのテンポを上げ、軽快にすれば、もっと音楽が沸き立ち、ワクワクするものになるだろうと思った。
一般的に言えば、軽さや様式感や均衡(微妙なバランス)と言ったものが評価されにくく、大音声で、どうだ!と言わんばかりに鳴り響かせることの方が、喝采を浴びることになりがちなのは残念なことだ。もっともこれは会場や客層によるのだと思うが。。。

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モーツァルトの住居

モーツァルトの家はザルツブルクに2つある。1つは生家で、もう1つは住んでいた家で、これは生家が手狭になって引っ越したのだった。もともとはダンスの先生の家だったという。

しかしながら、この家は第二次大戦末期に爆撃で甚大な被害を受けたのだが、日本の第一生命のサポートにより復元し、今は博物館となっている。第一生命の貢献は、ホームページにも記されているし、建物の入り口にも大きなプレートがあって麗々しく記されている。
ここを訪れるのは初めてではないが、ディジタル画面でモーツァルトの生涯を紹介する画面が増えた気がする。
前から展示があったかどうかは記憶にないが、今回気が付いたのは、モーツァルトの子供は6人いて2人だけが成人まで育ったわけだが、その1人クサヴィエは作曲家となった。このクサヴィエの紹介にあてた一部屋がある。クサヴィエはモーツァルトの弟子ジェスマイアーが父親ではないかという説が以前からあり、この部屋にはそれを否定するかのように、モーツァルトの耳は特徴的で、クサヴィエはそれを遺伝しているというスケッチがあった。また、ヴィデオガイドでクサヴィエの作曲した曲をいくつか聞けるようになっていた。
モーツァルトは作品は多くが残されたものの、姿形、顔つきは案外不確かなのだ。これがモーツァルトの姿を描いた肖像画と確定できるものは意外に少ない。はっきりしているのは、決してハンサム、イケメンではなかったこと、背丈が150センチほどであったということだ。

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ドレスコード

海外でオペラを観るとき、気になることの1つが服装である。

今年のザルツブルクでは、以前と比べてタキシードが減った気がする(と言っても今年も去年もたかだか数日ずつ滞在しただけなので断言するわけではなく、あくまで印象にすぎないことをお断りしておきます)。
火曜日の午後3時からで、演奏会形式ということもあったかもしれないが、たまたま早く会場に着いたので、観客の服装を眺めていたところ、気がついたことが幾つかあった。
男は一番多いのは、ダークスーツ。次は、替え上着。タキシードはいないわけではない、という程度だった。
女性はワンピースが一番多かった気がするが、膝丈くらいで、ロングドレスは珍しかった。ワンピースについで多かったのがパンツルックだった。年配の女性もパンツルックが案外多い。パンツスーツの人もそうでない人も同じくらいか。
これは夜でなく、演奏会形式というせいもあるかもしれないが、昨日、夜7時からで舞台のあるオペラでもさほど傾向は変わらなかった気がする。
これが今年は気温が高かったせいなのか、これからもずっとそうなのかはわからない。個人的にはタキシードでなくて良ければ、肩が凝らないので嬉しいのだが。

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2016年8月30日 (火)

《ファウスト》

「Salzburger Festspiele, Faust」の画像検索結果グノーの《ファウスト》を見た(ザルツブルク祝祭大劇場)

タイトル・ロールはベチャワ。お疲れのところもあったが熱演で、見せ場を盛り上げていた。メフィストフェレスのイルダ・アブドラザコフは、演技はうまいし、表情付けもいいのだが、もう一歩声量があるとさらに迫力があったろうにと思った。悪魔であるから、ところによっては圧倒的な声量が欲しい役ではある。
マルグリットはマリア・アグレスタ。清楚だが、宝石に心揺らぐところもうまく演じ、表現していた。マルグリットの兄ヴァレンティンはアレクセイ・マルコフ。太い力強い声だった。ジエベルあタラ・エロート。合唱というか民衆は、つなぎを着ている。女性はミニマウスのような頭をしている時もある。場面によってはテレビゲームのピクミンを思わせる集団的動きと音(楽譜にはない)を発していた。ファウストは寓意的なストーリーなので、写実につかなくても良いわけだ。
 グノーの《ファウスト》、よく書けてるなあと思った。フランス音楽にありがちな上品なんだけどリズムの変化に乏しく退屈してしまうところがない。バレエ音楽も上手い。しかも全体としてバラバラではなく、作品の整合性が音楽的にも感じられる。
ファウストとマルグリットのやり取りがもっとあればなどとも思うが、案外マルグリットの出番、聴かせどころが少ないのだ。
ヴェルディ的な部分も時にはあり、音楽史的な興味も掻き立てられる作品であった。
 

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《フィガロの結婚》

モーツァルトの《フィガロの結婚》を観た(ザルツブルク、モーツァルト劇場)。

《フィガロの結婚》がどれだけの傑作かを感じることは案外難しいことかもしれない。たいていの人はオペラを聞きはじめた頃にこの曲に慣れ親しむ(僕もそうだった)ので、この曲がオペラ・ブッファの基準になりかねないのだ。
しかし、第二幕の複雑さは、ストーリーにつられて、ハラハラドキドキする(それを持続させる台本=リブレットの巧みさも特筆すべきであるが)ままに、次から次へと珠玉の音楽が繰り出される。登場人物が多いのに、リブレットの展開と、音楽によるキャラクターの描き分け、場面・状況による描き分けがあまりにも適切で、複雑さを感じずにすっと頭に入る。
ものすごく頭のいい人が、複雑なことをその複雑さを捨て去らずにすっきりと話してくれるのを聞くと、なんだかこちらまで頭が良くなったような気がすることがあるが、それの極上の体験を音楽でしている感じだ。
モーツァルトの中には、ケルビーノのアリアや伯爵夫人のアリアのようにロマン派に通じる表現もあるし、ロッシーニなどに見られる早口でまくしたてるフレーズ(この日の演者は口があまり回っていなかった。この辺りはロッシーニ歌いは見事なものです)もある。その一方で、バロック的な軽やかな響きも残っており、モーツァルトをどういうスタイルで演奏するか、歌うかは様々な可能性を秘めているともいえよう。
この日の演出は1幕がなかなか面白く、舞台は2階建てになっているのだが、今歌っている人だけでなく、次に出番の人が隣の部屋や上の部屋をうろうろしているところを見せる。また、例えばフィガロが偶然入ってきたという場面も、フィガロはドア越しに聞き耳を立てていて、さてというタイミングで入る、という仕掛けにしていた。
指揮はダン・エッティンガー。時々、アリアの途中で、極端にテンポを落とすところがあったが、あとは通常の範囲内。
興味深かったのは第四幕。フィガロの結婚は、第四幕が難しい。一定レベルの歌手、オケ、指揮者が揃えば3幕まではそれなりに楽しめる。第4幕はだれてしまうことが多いのだ。4幕で注意すべきことはいくつかあるだろう。1つは舞台が戸外になっていること。これまで密室劇で、いるはずの人がいない、ケルビーノのはずがスザンナだったなどという一種の手品が繰り返されており、第4幕でもスザンナと伯爵夫人が衣装を取り替えてしかも伯爵を庭で逢い引きするよう誘っている。
つまり、これまでは室内だったのが戸外になった。さらに、これまでは言い逃れのアクロバットだったものが、スザンナたちが伯爵に誘い、トリックを仕掛けている。そして、見逃しがちなのが、戸外に出たことで、歌詞の中に牧歌的な要素(これまでにも、ケルビーノのアリアにはあったのだが)がでてくることだ。牧歌的要素が室内よりも庭や戸外の方が似つかわしいのは言うまでもないだろう。
こうした変化をどう表現するか。
この日のフィガロ、アダム・プラチェツカは、第四幕から明らかに表情を大げさに、仕草も大げさに演じていた。4幕では、スザンナ扮する伯爵夫人とフィガロの(見せかけの)ラブシーンがあるが、シャツをはだけ、ズボンを下ろしかけ、ベンチの上で大げさに(観客の笑いを誘っていたが)セクシュアルなは動きを見せた。これは1つの工夫だったと思う。つまり、第3幕までと第4幕が違うのだということを示すための。
また、音楽が鳴り終わってからも演技が続く(庭での宴会が続く)というのも意表をついていた。
伯爵はルカ・ピサローニ。伯爵夫人アネット・フリッチェ。スザンナ、アンナ・プロハスカ。彼女は歌は良いのだが、発音がパルランテ(語るように歌う)になると聞き取りにくいのが惜しいと
思う。演技は上手いのだから、ここを直せばずっと説得力を増すと思う。アネット・フリッチェの方がビブラートがかかる声なのにもかかわらず言葉はよく聞き取れるのだ。ケルビーノ、マルガリータ・グリツコヴァ。マルチェリーナ、リリアーナ・二キテアヌ、バルトロ、カルロス・ショーソン。
上演時間ということでなく、音楽的内容でいうと、フィガロの結婚は最も長大なオペラであると感じる。無論、退屈ということではなく、中身が詰まっているという意味においてである。
 

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2016年8月28日 (日)

コンスタンツェ・モーツァルトの墓

モーツァルトの妻コンスタンツェと父レオポルトの墓を訪れた(ザルツブルク、サン・セバスティアン教会)。

この教会はザルツブルクの新市街リンツァー•ガッセにある。教会自体はヨーロッパとしては新しい(19世紀に建てられたものと思われる)。コンスタンツェはモーツァルトの死後、ニッセンという外交官と結婚しているが、彼とザルツブルクに住み、さらにニッセンの方が先に亡くなっているので、モーツァルトの妻として、モーツァルトの父レオポルトと同じ墓に入ったのだろうか。
周知のように、モーツァルト自身はヴィーンの共同墓地に埋葬されたのでどこに埋葬されたかも詳細は不明である。
コンスタンツェは悪妻であったと言われているが、彼の死後、ニッセンとともにモーツァルトの伝記をあらわす(ただし自分に都合の悪いことは伏せた)など、モーツァルトの顕彰に尽くした面もある。

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《Il templario》 2

オペラはいうまでもなく音楽劇であるから、ストーリーの展開をたどるには、演奏会形式というのは不利であることを再確認した。舞台の上方にドイツ語字幕と英語字幕があり、英語字幕を見ていたのだが、それでも、初体験のオペラであるし、せめてセミステージだったらと思わずにはいられない。

 書き割りだけで良いし、衣装も簡素で良いから配役がわかり、今、何をしているのか、決闘しているのか、愛を語り合っているのかが、一目で分かるのは大事なことだ。
 2幕になって、指揮は少しほぐれてきた。とは言え
軽さというのではなく、彼独自のスイングがより頻繁に見られるようになってきたのだ。
 さて第二幕。レベッカはテンプル騎士団の建物に囚われの身だが、昔、ヨルダン川のほとりでヴィルフレードの手当てをしたことを思いだす。
 そこへブリアーノが現れ、レベッカを切々と口説き、一緒に逃げようというが、レベッカはそれくらいならここから身を投げるとバルコニーに出る。
 テンプル騎士団のグランド・マスター、ルカ・ボーマノワールが登場。レベッカの父イザッコは
ルカに娘の解放を願いでる。こうしてテンプル騎士団の建物に女性を連れ込んだことが発覚してしまうのだが、ブリアーノは口を割らない。
ルカは騎士団への打撃を恐れ、レベッカを魔女だと断罪する。彼女の無実を証明するために決闘が認められ、ブリアーノはレベッカ側に立って戦うつもりだったが、騎士団により騎士団側の戦士に任命されてしまう。
 チェドリーコは居城で、ヴィルフレードに対する父性愛と政治的な野心から息子を許せないという気持ちに引き裂かれている。ヴィルフレードは父に許しを乞う。ロヴェーナもそこに加わり、チェドリーコは息子を許し、ロヴェーナとの仲を認める。
 第3幕
 ヴィルフレードがレベッカの無実を証明する側の騎士として登場。舞台で見えないところで決闘がなされる。レベッカは神に命乞いをする。ヴィルフレードが勝利し、レベッカの無実が認められる。レベッカはヴィルフレードの足元に身を投げ出し、愛を告白する。しかしヴィルフレードは涙を流しつつもレベッカの愛を拒む(ロヴェーナがいるから当然といえば当然だが)。
レベッカは父の腕に倒れる。
 これでストーリーは終わりなのだ。このオペラは1840年にトリノのテアトロ・レージョで初演され、その年のうちにジェノヴァ、ミラノ、トリエステでも上演され、翌1841年にはヴェネツィア、ヴィーン、バルセローナ、ブレーシャ、ヴィチェンツァと広がり、49年ぐらいまでは方々で演奏され、1879年リヴォルノが19世紀の最後。そこから2008年までは忘れ去られていた。忘れ去られた理由の1つは、ロマンティックな愛が騎士道物語に彩られて語られていながら、レベッカの愛はまったく報いられないという点にあるのかもしれない。もっともブリアーノの思いもまったく片思いに終わっているのだが。
 しかし、その問題性が逆に現代ではいろいろな演出の可能性を喚起するかもしれない。フローレスが歌った役は出番はさほど多くないのだが、高音は大変高く、彼は切々たる所は切々と力強いところは力強く完璧に歌っていた。かつてに比較すれば、ほんのすこし声量が小さくなった気もしなくはないが、音楽性は文句無し。後半、聴かせどころのアリアも完璧に決めていた。
レベッカのマルゲーヌも憂いを含んだ顔の表情も含めて、見事にレベッカを描ききっていた。ルカ・サルシはいい声をしているので、翳りのある部分の歌の表情に一工夫あればもっと良かったのにと思えた。高レベルの贅沢な批判であります。
 繰り返しになるが、簡単な書き割りで良いし、簡素な衣装で良いので、舞台化したものを是非見たいものだと強く思った。テンプル騎士団が絡んでいるし、舞台映えすると思うのだが。
 

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《Il templario》1

オットー・ニコライのオペラ《Il templario》を観た(ザルツブルク祝祭大劇場)。全くの演奏会形式で、オーケストラが舞台上にいる。
この作品は2000年代に復活上演されるまで140年間忘れられていたものなので、調べたことを少し書いておく(英語のwikipediaが主要な情報源、CDのリーフレットも貴重な情報源であるが今手元にないので後日情報を加筆するかもしれない)。
オットー・ニコライはドイツ(プロイセン)の北の都市ケーニヒスブルク(現在はロシアのカリーニングラード)に生まれた。1810年生まれなので、ヴェルディやヴァーグナーと3つしか違わない同時代人である。彼は、ローマに留学してイタリアオペラにはまってしまい、ほとんどのオペラ作品をイタリア語のリブレットに書いたのである。
《Il templario》 もイタリア語のリブレットだ。
ストーリーはなかなか複雑で、スコットのアイヴァンホーを原作としているのだが、幕の始まる前の事情を説明しておかねばならない。
 背景
 1194年のイングランド。ノーマンコンクエストの勝利者たちは、アングロサクソンを見下しているし、ましてやユダヤ教徒やイスラム教徒の奴隷はものの数とも思っていない。
 アングロサクソンの王統を復興させようと目論むチェドリーコ(セドリック)は、ロヴェーナ姫をやはりアングロサクソンの王家の血を引くものと結婚させようと思っていたのだが、息子のヴィルフレード(アイヴァンホー)がロヴェーナに恋してしまい計画に暗雲が立ち込める。父チェドリーコは息子を勘当し、息子は十字軍に加わる。
 十字軍で重傷を負ったヴィルフレードはユダヤ人女性レベッカに助けられる。レベッカはヴィルフレードに恋し、イングランドまで父と一緒にやってきてしまう。レベッカを見て、惹かれてしまうのがテンプル騎士団の勇者ブリアーノ(ブライアン)であった。ブリアーノは、レベッカと一緒になれたらテンプル騎士団をやめて新たな生活をしようとまで思う。
 アシュビーの槍試合で正体不明の黒い騎士が登場し優勝する。
 第一幕
 この正体不明の黒い騎士(実はヴィルフレード)を褒め称える歌から始まる。その前に序曲があるのだが、この上演指揮はアンドレス・オロスコ=エストラーダ。オーケストラはヴィーンフィル。彼の指揮は、オケを目いっぱい鳴らすタイプで、スコアが見えるようだ。曲想によってはスイングするところもあるのだが、一点不満がある。ニコライの楽想には明らかにベルカントオペラに想を得たフレーズがあり、同じフレーズを何度も繰り返す箇所が出てくるのだが、そういうところで軽さがない。力一杯、鳴らしつくしてしまうのである。
オーケストラがあまりに鳴ると歌とのバランスが難しくなってくる。オーケストラ・ピットにいてさえ、人数が多いのだからフォルテの時のエネルギーはすさまじいわけで、同じ舞台だとなおさら厳しくなるわけである。
 さてこの謎の騎士は正体を明かさないままチェドリーコの館に招もかれる。
 槍試合で初めて敗北を喫したブリアーノはショックを受けている。彼はますますレベッカを思い、部下は今ならレベッカを誘拐できると進言する。
 ロヴェーナは謎の騎士がヴィルフレードではないかと疑っている。そこへ、レベッカと父が助けをもとめてくる。ロヴェーナは彼らを保護する。
 ブリアーノは城に侵入し、レベッカを引き渡すよう要求するが、チェドリーコは拒絶。ブリアーノが剣を抜くとヴィルフレードが割って入り、正体をあかす。ブリアーノの部下はレベッカを拉致する。
 ここで休憩。
 歌手はヴィルフレードがフローレス。声を誇示するというのではなく、曲想にそって表情をつけていき文句ない。ブリアーノがルカ・サルシ。なかなtか立派な声で演奏も良かった。レベッカはクレメンティン・マルゲーヌ。フランスのメゾ・ソプラノだが、声といい音楽性といい、佇まいといい素晴らしい(当初はディドナートが予定されていた)。チェドリーコはサンペトレアン。このオペラ、バリトンやバスが大活躍する。その点では、ヴェルディに通じるものがある。曲想はドニゼッティ的なところ、初期のヴェルディ的なところ、もちろん、ニコライ独特のところがあるのだが、僕の好みからすると、もう少し、ベルカント風に振ってってくれればという感想を持った。もちろん、これはこのプロダクションの初演であり、演奏を重ねて練れてくれば、硬さが取れて闊達な演奏が期待できるかもしれない。(二幕以下、項を改めます)。

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《神々の黄昏》

ニーベルングの指環の最終作である。相変わらず、演出にはピンとこないところが多々ある。音楽的には素晴らしいし、歌手も素晴らしかった。特に、ハーゲンのスティーブン・ミリング、グンターのマルクス・アイヒ、ブリュンヒルデのキャサリン・フォスターである。
舞台がニューヨークのアパートや証券取引所(富の象徴)なのはいいとして、ジークフリートの弱点は背中だと聞かされたハーゲンは肝心のところで金属バットのようなものでジークフリートを撲殺するのだった。ハーゲンの死に方もドラム缶のたき火に手を突っ込みかけて死んでいるかのようであった。読み替え演出、レジーテアターの黄昏なのかもしれないと思った。と同時に、ヴァグナーのこの大作は、神話であるのだから、もっと色々な演出が可能なのだろうにと思わずにはいられない。カーテンコールで初めてオーケストラの団員が舞台に上がってきたが皆ラフな格好(例えばポロシャツとジーンズとか)だった。通常は全く観客からは見えないのでそれで問題はないのだ。

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2016年8月27日 (土)

アンナ・プロハスカ、ヴェロニカ・エーベルレ室内コンサート

アンナ・プロハスカ(ソプラノ歌手)、ヴァロニカ・エーベルレ(ヴァイオリン)を中心とした室内コンサートを聴いた(モーツァルテウム・グロッサー・ザール、ザルツブルク)。

ヴェロニカ・エーベルレは調べてみるとN響との共演もあり、楽器も日本音楽財団が貸与しているストラディヴァリウスのドラゴネッティであり、日本との縁も浅からぬものがある。
演目は前半がシューベルトのサルヴェ・レジーナ、ヴェーベルンのSchmerz immer Blick nach oben(いつも見上げる痛み)、ペルゴレージのサルヴェ・レジーナであった。どれも宗教曲。ウェーヴェルンは極めて短い。2、3分の曲。作曲年代は、シューベルトが1819年、ヴェーベルンが1913年、ペルゴレージが1735−36年である。これが連続して演奏された。非常に知的なプログラムといえよう。
個人的にヴァーグナーを連日聞いてきて、ヴェーベルンに接すると驚愕の他はない。自分のある思いを表出するのに15時間もかけずにはいられない作曲家もいれば、切り詰めて、切り詰めて無季俳句のようにつぶやく(絃楽器も奏でるというより擦れる音を出す)音楽もある。しかしヴェーベルンが心に刻む印象が決して浅いわけではないのだ。
そしてペルゴレージにおける対位法やバロックの音楽語法は、とても豊かに充実しており、ヴァーグナーとは別の感覚でこちらを圧倒した。
シューベルト、ヴェーベルン、ペルゴレージを続けて歌うプロハスカは見事だが、ややロマンティックな歌唱で、子音の頭が丸くなる傾向がある。丁寧に歌い上げるために、ここは音楽の流れ、勢いを強調してほしいと思うところもあった。
奏者としてはチェロのQuirine Viersen, コントラバスのRick Stotijn が見事なサポートを見せていた。出しゃばらないのだが、必要な時には大胆な表情(例えば不気味なトレモロ)を見せ、軽快なリズムを刻んでいく。
以上の3曲で約30分。ヴァーグナーを聞いてくると、そのことも驚きなのだった。
休憩は8時頃だったが、まだ外気は生暖かいのだった。
後半はシューベルトの弦楽八重奏曲、D803。最終楽章が特に見事で、8人の奏者が自発性を見せつつ、互いの音を聞きあい、しかもノリノリの感じだった。スイングするシューベルト。エーベルレのポニーテイルが彼女の奏でる音楽、リズム、躍動を視覚的に表現するかのように跳ね、揺れ動いていた。彼らは、どのフレーズも丁寧に弾き、吹く(ホルンも見事でした)のだが、丁寧すぎて躍動感を失うことがなく、丁寧さが伝えるフレーズ毎の表情の変化を積み重ねていった上で最終楽章の駆け抜けるような楽章に達すると非常に高い音楽的満足感を覚えるのだった。
アンコールは歌手が戻ってロマン派的な情緒纏綿たる曲(曲名はわかりませんでした)だった。モーツァルテウムではコントラバス一丁で重低音は響きわたり体に感じる低音でした。

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バイロイトからザルツブルクへ

バイロイトからザルツブルクへ移動した(この項、個人的な旅行のメモです)。

バイロイトから南に向かいミュンヘンで東に向かう。国は変わるが、ミュンヘンからザルツブルクへは電車で2時間弱だが、ザルツブルクからヴィーンへは2時間40分かかる。つまりミュンヘンの方が近いのである。モーツァルトが6歳、18歳、21歳の時に訪れ、24歳の時にはオペラ《イドメネオ》の委嘱を受け初演していることも、距離の近さが全く無縁ではないだろう。つい現在の国境をもとに考えてしまいがちだが、例えばモーツァルトを考える時には、その時代の地図に基づいて、それを頭に入れて思いを巡らせねばならないのだとあらためて思う。
ミュンヘンからザルツブルクにかけて山並みが見える。
標高を調べてみると、ミュンヘンの標高は510メートル、ザルツブルクは420、バイロイトは340だった。ミュンヘンが意外と高いのだった。ちなみに碓氷峠の登り口の横川が387メートルである。

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2016年8月26日 (金)

バイロイト辺境伯歌劇場

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バイロイト辺境伯歌劇場を訪れた(バイロイト)。ここは、ただいま(2016年8月)修復中でしばらくは中を見ることはできない。ただし、展示があって、そこには大きなタッチスクリーンがあって、ドローンを使って修復前の劇場の内部と外(空からの映像もある)を様々な角度から見ることができて面白かった。修復作業も階段の踊り場的な場所からチラッと見ることができた。
この劇場は、ドイツで現存する唯一のバロック劇場であるとのこと。非常にコンパクトで座席数は300弱であったと思う。展示からわかったが、劇場を設計したのはボローニャからやってきたイタリア人の一族だった。

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フランツ・リスト博物館

クリックすると新しいウィンドウで開きます
フランツ・リスト博物館を訪れた(バイロイト)。
この博物館はリヒャルト・
ヴァーグナー博物館のすぐそば、通りを隔てた
隣に位置している。
こちらの博物館は、デジタル化はされておらず(2016年8月現在)、
従来の博物館的な展示で、リストの活動時期ごとに版画や
写真や資料が展示されている。
リストの墓もバイロイト市内の別の箇所にある。
その墓地にはヴァーグナー家
(リヒャルト・ヴァーグナーの子孫たち)
の墓もあるのだった。

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2016年8月24日 (水)

《ジークフリート》

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ヴァーグナーのオペラ《ジークフリート》を観た(バイロイト)。

舞台は、写

真の通り、崖にマルクス、レーニン、スターリン、毛沢東が刻まれている。裏側は現代的なお店などのある広場(旧東ベルリンの広場であったらしい)。

《ジークフリート》ではタイトルロールのジークフリート役はほぼ出ずっぱりでよくスタミナが持つと感心する。アルベリヒやヴォータン、巨人族のファフナーはそれぞれ低音の魅力を聞かせていた。特にファフナーは大蛇の役だから人間を超えたものを表象する迫力が求められるわけだが、その音楽的な要請にカール・ハインツ•レーナーは見事に答えていた。

ただし、演出の関係で、彼はギャング的な人間の姿のまま、ノートゥングという剣(何十回もノートゥングのことが歌われるのに)ではなく、機関銃で撃たれて死んだ。大蛇は出てこずじまい。ワニが出てくるのだが、何のためにいるのかわからない。

社会主義の4人も何のためにずっと見下ろしているのだか。というわけで、第3幕が終わった後は激しいブーイングで、ご丁寧に、歌手には拍手の嵐なのだが、歌手が引っ込んで舞台に誰もいなくなるとブーイングが場内に響き渡るということがカーテンコールの間中続いた。よほど多くの人が演奏には満足していたが演出には不満であったのだ。調べてみると、この演出は4年目だが、演出に対する不満は最初からずっと激しいようである。

ま、評判が良くも悪くも5年間は同じプロダクションだそうなので、来年まではこのプロダクションなのだろう。

 

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2016年8月23日 (火)

リヒャルト・ヴァーグナー博物館

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リヒャルト・ヴァーグナー博物館に行ってきた(バイロイト)。この博物館は3つの建物から構成されているが、メインの館は、ヴァーグナーが生前住んだ最後の家である。そのほか向かって右側に息子ジークフリートの家があり、向かって右側に2015年に竣工したモダンな建物がある。
右側の建物にチケットオフィスがあり、そこでオーディオガイド(ドイツ語はもちろん英語はあるが、日本語はない)を借りた。1Fでは特別展で写真展があった。
地下が常設展であると思われる。ここには過去のバイロイト音楽祭で使用された衣装や舞台セットの模型が飾られている。衣装では1890年代のものもあった。1970年代の衣装までは、リブレットから想像される人物像(神であったり、神と人の間の子であったり、英雄的戦士であったり)と衣装がかみ合っている。現在は良かれ悪しかれ、ヴォータンがギャングの親分のような格好をしていたりするわけで、演出のコンセプトの解説なしには、なぜこれが丸々の衣装であるか理解できない状態が常態となっているわけだ。
また、バイロイトで振った指揮者の顔写真がずらっと並んでいるコーナーがあったが、案外、イタリア人指揮者もいる。トスカニーニやデ・サバタだけでなく、エレーデ(日本でドニゼッティの《愛の妙薬》の超名演を披露した)もバイロイトで一度振っているのであった。
また、デジタル化した博物館として面白かったのは、大きな液晶画面にスコアが映し出され、レコードがかかっているのだが、今演奏されている部分がスコアを縦方向に帯状で明るくなり、それが演奏と共に右方向に動いていく。スコアは実物大より拡大されている。いろんな曲がかかっているようだが、僕は《神々の黄昏》のフィナーレを流れゆくスコアを見ながら聞き圧倒された。画面上には、ラインの黄金のテーマといった注もドイツ語ではあるが演奏される部分で浮かび上がってくるので、フィナーレの部分でこれまでの様々なテーマが錯綜しながら回想されるさまが手に取るようにわかる、わからせてくれる。
本館に行くと、一階はおおむねヴァーグナーの生前のサロンがそのままに保全されている(壁紙などは変わっているが)。入って最初が吹き抜けの空間でここで小規模演奏会をしたのだというが、人の話し声を聞いて判断する限り、とても反響が豊かだった。奥がサロン兼仕事部屋。
二階にはヴァーグナーが普段着ていた服や自筆の楽譜(草稿を含む)があり、驚くほど小さな判型に小さな楽譜を几帳面に書き記していたのだと知った。ルートヴィヒにあてた手紙なども細かい小さな字でびっしりと書かれている。あらためて紙が貴重だったのだと思う。
家系図にあてた部屋もあった。ヴァーグナーも妻コジマも、ヴァーグナーの母親も複数回結婚しているので、横に広い系図なのであった。
左がわの息子ジークフリートの家にはヴィデオがあって、ジークフリート一家とナチス政権、ヒトラーの関係、とりわけジークフリートの妻ヴィニフレートが政権と親密であった事などが写真とともに紹介されていた。
本館の裏手にはヴァーグナーの墓がある。

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《ヴァルキューレ》

クリックすると新しいウィンドウで開きますヴァーグナーのオペラ《ヴァルキューレ》を観た(バイロイト祝祭劇場)前作とは舞台が変わって、農家が舞台でジークムントとジークリンデの出会いと惹かれあいがある。回り舞台で裏側には井戸を掘るような機械がある。

第一幕では人は3人しか出てこないから、スクリーンに映すような関係もないのだが、白黒で労働者やレーニンの姿などが映る。
《ラインの黄金》ではとても効果的と感じたス
クリーンだが、《ヴァルキューレ》では写っているものがピンとこないし、
無理やり感が強かった。ヴァルキューレにレーニン、ソ連の新聞プラウダねえ。演出家にとっては何かそこに込めた思いがあるに違いないと思って良いのかもしれない(良くないのかもしれないが、それがどちらかわからないのは、見ているこちらの理解度が不足なのかもしれないが、演出家が説明不足あるいは不親切とも言えないこともないかもしれない)。
こういう演出で一番活躍の可能性が高いのは批評家、評論家、演出家(自身の)解説であろう。意地悪い見方をすれば、こういうものは、批評家にとってありがたい演出といえよう。《ヴァルキューレ》に、演出家がある自分の独善的な、勝手な、恣意的な思い入れを塗り込めて、その種明かしをする、していただく、ということに、そこはかとない、いやかなりの徒労感を覚える今日この頃である。
しかし演奏は充実していた。ジークリンデを歌ったハイディ・メルトンは体格が立派で、声も突き抜ける声で素晴らしかった。相変わらず、オケの響きは劇場の作りもあって素晴らしい。
ヴァルキューレは作品として、有名なフレーズ、聴かせどころもたっぷりあるのだが、それ以外の部分はとてつもなく冗長に感じられる。一種の我慢大会である。
レチタティーヴォを否定するとこうまで作品の進行が非効率的になるということをこれほど雄弁に証明している作品群はないだろう。ヴァーグナーの影響を受けた作曲家は自分がどれだけ危険極まりない道に足を踏み入れたか自覚があったのだろうか。もちろん、なかったのだろうけれど。。。
上演時間は4時に始まって、一幕の終わり、二幕の終わりに1時間ずつの休憩があって、終焉は9時半。念のため付け加えておくが、ヤノフスキの指揮はキビキビとしており、決してテンポは遅くない。指揮はこの日も素晴らしかった。

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2016年8月22日 (月)

バイロイト祝祭歌劇場の庭

バイロイト祝祭歌劇場の前にはかなり広い庭が広がっている。

その一角には、首から上の晒し首になったようなヴァーグナー像もある。その周りに、顔写真入りで、様々な人の石碑があったので休憩時間に見てみた。
最初は、ヴァーグナーやバイロイトにゆかりのある名歌手、名指揮者かと思ったのだが、名前に全く聞き覚えのない人が多い。碑文を読んで驚いた。これらの人はフルート奏者や合唱団の人もいるのだが、バイロイトに出演した後、ナチスにより強制収容所に送られそこで亡くなった人たちだったのだ。
さらに、ナチス政権に批判的だったため職を剥奪され、スイスやアメリカに亡命した指揮者などもいる。
石碑の数はかなりあったので、すべてを確認したわけではないが、僕が見た限りでは、どれもナチスにより生命を奪われた人か亡命を余儀なくされた人だった。だから合唱団で1920年代に2回バイロイトで歌って、その後、強制収容所で死んだという人は他のことは全く知られておらず、演奏家として著名というわけではない。
ナチスがヴァーグナーの音楽を利用したことはよく知られており、しかしながら、音楽祭は音楽祭として続けていくというために、こうしたモニュメントが必要だったのかもしれないし、我々はそのことを記憶にとどめておく必要があるのだろうと思う。
 

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2016年8月21日 (日)

《ラインの黄金》

ヴァーグナーのオペラ《ラインの黄金》を観た(バイロイト祝祭歌劇場)。

《ラインの黄金》はニーベルングの指環という長い長いオペラの序である。序だけで2時間半もあるのだから、通常のオペラの一作分である。
今回の演出は同じプロダクションの4年目であるらしい。昨年までは指揮者がペトレンコであったのが今年からヤノフスキーになった。ヤノフスキーは日本でもヴァーグナーを振った人である。
テンポがキビキビとしていて、もたつくところがない。今回、感心したのは、この祝祭劇場の響きである。ヴァーグナーのオーケストレーションが柔らかく響く。どれだけ強奏になっても、金管が炸裂する場面になっても、耳に痛くない。どこまでも心地よい音なのだ。それと直接聞こえる人の声のバランスが絶妙である。今まで、ヴァーグナーのこの劇場の良さを理解できなかったが、実際に音を聞いてみて、考えが大きく変わった。
今回の演出は、カストルフによるもので、賛否両論が激しい。演奏後にも、ブーイングとブラボーが交錯していた。
演出に関する予習はせずに観たところでは、舞台がアメリカのホテル(モーテル)になっており、金塊をギャングのボスが奪いあう。女神たちはボスの妻や愛人に見える。ローゲはヴォータンというギャングのボスの参謀でとてもズル賢い。
出てくる人物は、いわばロクでもない人物ばかりなのだが、この演出は案外気に入った。1つには、僕自身がヴァーグナー作品には神々といえどロクでもない人物ばかり出てくるなあと前から思っていたからだからだが、気に入ったのにはもう1つ理由がある。
舞台の上にかなり大きいスクリーンがあって、最初は舞台で起こっていることを部分を拡大して写している感じだったのだが、だんだんと今歌っていない人がどういう状況にいるか、悪だくみをしているか、あるいは過去の情景などが映る。観客としては、今眼前で歌っている人も気になるし、画面も気になる。スクリーンによって、ここのキャラクターの裏面や側面も理解できるシステムになっていた。
また、細かいことだが、巨人族の兄弟が一人は普通のメークでもう一人は髭面を越して顔下半分がノリをつけたように真っ黒だったのも良い。同じようなメークでは区別がつかなくなるからだ。大胆な読み替え演出なのだが、ストーリーの展開はこうして(少なくとも僕には)納得がいった。
後から調べてみると、演出家は石油利権のことなどを考えていたらしい。まあ、そういう意図があってもよいが、その意図は観客に自明とは言えなかったと思う。モーテルの裏側はガソリンスタンドになっていたので、石油と関わりはあるけれども。
最初にも書いたが、劇場の音響が素晴らしいので、アリア的でない通常退屈に聞こえるレチタティーヴォ的な部分が気にならないというか冗長に聞こえなかった。指揮の運びの良さもあるが、オケと声のバランスの良さも大いに効果を上げていると思ったし、舞台での動きとスクリーンに気をとられるのも、レチタティーヴォ的なところで退屈しないためには良いのかもしれない。むろん、こんな演出では音楽に集中できないという不満を持つ方がいるのもよく理解できるが。
 さらに言えば、ヴェルディでは読み替え演出は感心しないことが多いのだが、ヴァーグナーの指環はもともとが神話で登場人物も神だったり地底人?だったりリアリティーはなく、寓意的である。寓意的なものの方が、一般的に言えば、読み替え演出には向いていると思う。
 

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バイロイト

バイロイトに来た。ヴァーグナーの指環を観るためである。

幾つか失敗したことがあるので、もしかしたら参考になる方もいるやもしれないので記しておきます。
1.インターネットで予約し、切符は劇場のチケットオフィスで受け取るつもりだったが、Eチケットで印刷してこなければいけないのだった。印刷してこなかったため25ユーロ支払う羽目になった。
2.チケットオフィスの場所は劇場の正面に立って左側の側面にある。右側には、軽食の店があるが、そこの店員もチケットオフィスはどこにあるか知らないのだった。
3.劇場の列と列の間はとても狭い。奥の方(劇場の中央に近い部分)の場合、早めに着席するのが得策かと。
4.バイロイトの座席は背中が木で、しばらく座っていると背中が痛くなってくる(可能性が大きい)。地下のクロークで座布団のようなものは貸してくれるのでお尻は大丈夫なのだけれど、背中の対策も必要かもしれない。

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2016年8月19日 (金)

《イタリアのトルコ人》

《イタリアのトルコ人》を観た(ロッシーニ劇場、ROF).

演出はリヴァモア。指揮はスカップッチ。

セリムがアーウィン・シュロット。フロリッラがペレチャツコ。夫ジェロ二オがアライモ、詩人(リブレッティスタ)プロスドーチモがピエトロ・スパニョーリ。

リヴァモアはフェリーニの映画を彷彿とさせる色々な仕掛けを駆使していてそれは判るし、これだけの歌手が揃っているのも大変贅沢なことだということを断っての上だが、3年前の《アルジェのイタリア女》(これも演出はリヴァモア)と比べると面白さは弾けない。シュロットは声量は圧倒的に豊かだし、アライモも早口のところもきっちり回っているのだが、エスポジトのような可笑しみに欠けるところが残念ながらある。喜劇は難しいのだということがよくわかった。

また、アンサンブルが乱れるところが時々あって、ロッシーニの目の回るような重唱、コンチェルタートはアンサンブルがきっちり合っていてその上でめまいのような感覚を味わう快感があるのであって、アンサンブルがバラバラになりかけているとめまいの快感ではなく、ハラハラするということもわかった。指揮は勢いはあるのだが、少し荒っぽいのだった。

レベルは高いのだが、決定的な弾ける面白さまでは到達しきれなかったとても惜しい演奏だった(すごい贅沢な文句のつけようで恐縮であります)。

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マイケル・スパイアーズ・リサイタル

マイケル・スパイアーズのリサイタルを聴いた(ロッシーニ劇場、ROF)

ヌーリに捧げるという副題がついていたので調べてみるとアドルフ・ヌーリという歌手がロッシーニの時代にいて、彼はロッシーニの弟子でもあって、ロッシーニのフランスオペラを創唱(世界初演)している。
スパイアーズが歌ったのはドニゼッティの《ポリウート》からの一曲を除き、全てフランスオペラ。オーベールやアレヴィ、パチー二といった普段なかなか聞けないものが聞けた。オーベールの《媚薬》は序曲とアリアが演奏されたが、これはドニゼッティの《愛の妙薬》の原作にあたるものでストーリーはごく細いところを除き全く同じだ。
この日の演奏はDavid Parry のキビキビとした指揮もよくフランスオペラを丁寧にやりすぎると陥りがちなたるみもなく、またスパイアーズがソットヴォーチェや声を張り上げる部分のメリハリもよく会場は大喝采の連続だった。《ギヨーム・テル》が名曲中の名曲であることを改めて認識したが、他のフランスオペラのアリアも十分素晴らしいことをこの演奏で認識した。

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モニカ・バチェッリ・リサイタル

モニカ・バチェッリというメゾソプラノのリサイタルを聴いた(Auditorium Pedrotti,ROF)

プログラムは、シューベルトとロッシーニ。ピアノはピエトロ・デ・マリア。彼がシューベルトのソナタの2楽章を弾いたり、ロッシーニの晩年のピアノ曲を弾いたりしたが、ロマンティックな弾き方なので、シューベルトが好演で、ロッシーニは皮肉な味わいは捨てて、ロマンティックに弾くとこうなる、こう聞こえるというもので、それはそれで興味深かった。
バチェッリも熱演。

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《湖の女》

《湖の女》を観た(ROF).
演出はミキエレット。舞台は廃墟と化した家。老夫婦となったマルコムとエレナが過去を思い出すという枠組み。老人となったマルコムとエレナは黒子のように若い日の場面にも出てくる。
指揮はマリオッティ。ロッシーニはこういうスタイルで演奏しようという音楽観、様式感、美意識が聴き手にも明確に伝わる堂々たる演奏。それを演奏しているボローニャ歌劇場のオケと合唱団もレベルが高い。
ウベルトはフローレス。マルコムのAbrahamyanも良かった。スパイアーズは今年はダグラス(ドゥグラス)を歌っていて、立派だった。この人はバリトンの領域も豊かに出る人で、低い方はよく響く分、最高音の輝かしさはフローレスと比べてしまうと異なることが判ってしまうのだが、音楽的には申し分ないのだった。エレナのJicia も大健闘。

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《バビロニアのチーロ》

《バビロニアのチーロ》を観た(ペーザロ、ロッシーニ・オペラ・フェスティバル=ROF)

4年前と同じプロダクションで、チーロを歌うのもポドレス。敵役のバルダッサーレはシラグーザでさすがだったが、4年前のスパイアーズも違った味があったことを再確認できた。囚われの身、チーロの妻アミーラはイェンデという歌手で、彼女だけが顔の白塗りをしていなかった。
指揮はビニャミーニ。ロマンティックな表情の部分でテンポを落としすぎるのがやや難。

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