司教の言葉
イタリアの地震について司教の言葉が注目を浴びている(RAI).
| 固定リンク
| コメント (0)
| トラックバック (0)
イタリアの地震について司教の言葉が注目を浴びている(RAI).
| 固定リンク
| コメント (0)
| トラックバック (0)
オットー・ニコライのオペラ《Il templario》を聞いた。2度目である。(ザルツブルク祝祭大劇場)。
| 固定リンク
| コメント (0)
| トラックバック (0)
モーツァルトの家はザルツブルクに2つある。1つは生家で、もう1つは住んでいた家で、これは生家が手狭になって引っ越したのだった。もともとはダンスの先生の家だったという。
| 固定リンク
| コメント (0)
| トラックバック (0)
海外でオペラを観るとき、気になることの1つが服装である。
| 固定リンク
| コメント (0)
| トラックバック (0)
| 固定リンク
| コメント (0)
| トラックバック (0)
モーツァルトの《フィガロの結婚》を観た(ザルツブルク、モーツァルト劇場)。
| 固定リンク
| コメント (0)
| トラックバック (0)
モーツァルトの妻コンスタンツェと父レオポルトの墓を訪れた(ザルツブルク、サン・セバスティアン教会)。
| 固定リンク
| コメント (0)
| トラックバック (0)
オペラはいうまでもなく音楽劇であるから、ストーリーの展開をたどるには、演奏会形式というのは不利であることを再確認した。舞台の上方にドイツ語字幕と英語字幕があり、英語字幕を見ていたのだが、それでも、初体験のオペラであるし、せめてセミステージだったらと思わずにはいられない。
| 固定リンク
| コメント (0)
| トラックバック (0)
| 固定リンク
| コメント (0)
| トラックバック (0)
| 固定リンク
| コメント (0)
| トラックバック (0)
アンナ・プロハスカ(ソプラノ歌手)、ヴァロニカ・エーベルレ(ヴァイオリン)を中心とした室内コンサートを聴いた(モーツァルテウム・グロッサー・ザール、ザルツブルク)。
| 固定リンク
| コメント (0)
| トラックバック (0)
バイロイトからザルツブルクへ移動した(この項、個人的な旅行のメモです)。
| 固定リンク
| コメント (0)
| トラックバック (0)
ヴァーグナーのオペラ《ジークフリート》を観た(バイロイト)。
舞台は、写
真の通り、崖にマルクス、レーニン、スターリン、毛沢東が刻まれている。裏側は現代的なお店などのある広場(旧東ベルリンの広場であったらしい)。
《ジークフリート》ではタイトルロールのジークフリート役はほぼ出ずっぱりでよくスタミナが持つと感心する。アルベリヒやヴォータン、巨人族のファフナーはそれぞれ低音の魅力を聞かせていた。特にファフナーは大蛇の役だから人間を超えたものを表象する迫力が求められるわけだが、その音楽的な要請にカール・ハインツ•レーナーは見事に答えていた。
ただし、演出の関係で、彼はギャング的な人間の姿のまま、ノートゥングという剣(何十回もノートゥングのことが歌われるのに)ではなく、機関銃で撃たれて死んだ。大蛇は出てこずじまい。ワニが出てくるのだが、何のためにいるのかわからない。
社会主義の4人も何のためにずっと見下ろしているのだか。というわけで、第3幕が終わった後は激しいブーイングで、ご丁寧に、歌手には拍手の嵐なのだが、歌手が引っ込んで舞台に誰もいなくなるとブーイングが場内に響き渡るということがカーテンコールの間中続いた。よほど多くの人が演奏には満足していたが演出には不満であったのだ。調べてみると、この演出は4年目だが、演出に対する不満は最初からずっと激しいようである。
ま、評判が良くも悪くも5年間は同じプロダクションだそうなので、来年まではこのプロダクションなのだろう。
| 固定リンク
| コメント (0)
| トラックバック (0)
| 固定リンク
| コメント (0)
| トラックバック (0)
ヴァーグナーのオペラ《ヴァルキューレ》を観た(バイロイト祝祭劇場)前作とは舞台が変わって、農家が舞台でジークムントとジークリンデの出会いと惹かれあいがある。回り舞台で裏側には井戸を掘るような機械がある。
| 固定リンク
| コメント (0)
| トラックバック (0)
バイロイト祝祭歌劇場の前にはかなり広い庭が広がっている。
| 固定リンク
| コメント (0)
| トラックバック (0)
ヴァーグナーのオペラ《ラインの黄金》を観た(バイロイト祝祭歌劇場)。
| 固定リンク
| コメント (0)
| トラックバック (0)
| 固定リンク
| コメント (0)
| トラックバック (0)
《イタリアのトルコ人》を観た(ロッシーニ劇場、ROF).
演出はリヴァモア。指揮はスカップッチ。
セリムがアーウィン・シュロット。フロリッラがペレチャツコ。夫ジェロ二オがアライモ、詩人(リブレッティスタ)プロスドーチモがピエトロ・スパニョーリ。
リヴァモアはフェリーニの映画を彷彿とさせる色々な仕掛けを駆使していてそれは判るし、これだけの歌手が揃っているのも大変贅沢なことだということを断っての上だが、3年前の《アルジェのイタリア女》(これも演出はリヴァモア)と比べると面白さは弾けない。シュロットは声量は圧倒的に豊かだし、アライモも早口のところもきっちり回っているのだが、エスポジトのような可笑しみに欠けるところが残念ながらある。喜劇は難しいのだということがよくわかった。
また、アンサンブルが乱れるところが時々あって、ロッシーニの目の回るような重唱、コンチェルタートはアンサンブルがきっちり合っていてその上でめまいのような感覚を味わう快感があるのであって、アンサンブルがバラバラになりかけているとめまいの快感ではなく、ハラハラするということもわかった。指揮は勢いはあるのだが、少し荒っぽいのだった。
レベルは高いのだが、決定的な弾ける面白さまでは到達しきれなかったとても惜しい演奏だった(すごい贅沢な文句のつけようで恐縮であります)。
| 固定リンク
| コメント (0)
| トラックバック (0)
マイケル・スパイアーズのリサイタルを聴いた(ロッシーニ劇場、ROF)
| 固定リンク
| コメント (0)
| トラックバック (0)
モニカ・バチェッリというメゾソプラノのリサイタルを聴いた(Auditorium Pedrotti,ROF)
| 固定リンク
| コメント (0)
| トラックバック (0)
| 固定リンク
| コメント (0)
| トラックバック (0)
《バビロニアのチーロ》を観た(ペーザロ、ロッシーニ・オペラ・フェスティバル=ROF)
| 固定リンク
| コメント (0)
| トラックバック (0)
最近のコメント