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2016年3月14日 (月)

《ラ・ボエーム》

プッチーニ作曲の《ラ・ボエーム》を観た(たましんRISURUホール)。

立川市民オペラ公演2016ということで、僕ははじめてであったが、パンフレットによれば平成4年から立川市民オペラという活動が続いている。
ソリストは藤原歌劇団や二期会の若手で、合唱団は地元の合唱団(立川市民オペラ合唱団、立川市民オペラ2016児童合唱団)。こういうやり方で、地元の人々が単なる観客ではなく、自分たちも参加してオペラを作っていくということの意義は大きいであろうと推察する。観客も、自分の親族・友人・知人が出演していれば、いっそう気持ちが入るというものだ。そういえば、オペラも芝居も熱心に劇場に行く人には、たいてい贔屓の役者や歌手がいるものだ。この場合、親族や友人ではなくても、その役者・歌手に気持ちが入っている点は同じだと言ってよいだろう。
オーケストラは簡略なもので、ピアノとフルート、オーボエ、クラリネット、ファゴットである。しかし第二幕で舞台上にバンダが出てくる場面では、バンダが別にいた。
決して派手な装置ではないが、ドアや窓、門をみせて(天上や屋根がない形)、空間の仕切りをつけていて、話の進展はわかりやすい。また、第二幕、カフェ・モミュスの場面も、戸外であることを照明の色を変えて表現していた。好ましい演出。
会場のたましんRISURUホールは、昔からある市民会館や文化会館の感じ。最近、行った川口やいくつかのホールが日本がバブルあるいは税収に恵まれていた時期に建てられたものだったのだろう。そういった音楽ホールとこういう通常の市民会館の違いは、音の響きやすさにある。反射音があまりなくて、声が吸い込まれていくというと大げさなのだが、パーンと響かせることはむずかしそうだった。しかし、オーケストラが小編成なのでその分は救われていると思った。
歌手はミミの佐田山千恵(敬称略、以下同様)が演技もふくめ純朴な感じのミミ。それに対し別府美沙子のムゼッタは、動きも歌も様式的に決まる。演技にかんして言えば、のべつ幕なしに動きまわるのではなく、動くときは動き、手の動きもすぱっと動いてあとは止まるという気持ちのよいもの。ムゼッタのワルツなど、人によってはたっぷりめに歌って少しくずして歌うが、別府のムゼッタの歌は格調高い。かといって堅苦しいものではなく、こういうムゼッタも音楽的で、ベルカントでいいものだと思った。男性陣もロドルフォの笛田博昭のロドルフォは出色だった。この人、声が通るし、堂々とした身体つきで、ロマンティックな役柄にもぴったりだと思う。しいて難を言えば、声の音色の強いところは文句ないのだが、甘く歌うところの表情がさらにやわらかみを増せば鬼に金棒であろう。マルチェッロの須藤慎吾もよかった。ロドルフォとマルチェッロの掛け合いでも、互角に渡り合い、いやな癖のない気持ちのいい歌をきかせてくれた。
全体として、思った以上にと言っては失礼かもしれないが、レベルの高い上演で満足した。《ラ・ボエーム》は音楽的には第一幕が特に良く出来ている。この作品は、出来上がるまでに
リブレッティスタ(台本家)イッリカとジャコーザとさんざん揉めて、プッチーニとやりあって完成したリブレットだ。台本も練りに練ってあるし、それにふさわしい音楽がついている。ただし、それはヴェルディの時代のように、理想に燃える人物が登場するのではなく、むしろ、庶民の生活をありのままに描くというリアリズム、自然主義のものなので、主人公が何かに目覚めて成長するというような要素は乏しい。第四幕を見れば明らかだが、第一幕のメロディーがミミとロドルフォで入れ替わって歌われる。つまり、一回りして、同じところに帰ってくるのだ。《ラ・ボエーム》が書かれた時には、ヨーロッパの革命の季節は終わり、イタリアの国家統一も終わっていた。そういった政治の季節の違いをオペラも反映しているのである。

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