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2016年2月 8日 (月)

オッフェンバック 《青ひげ》

イメージ 1オッフェンバックのオペラ・ブーフ《青ひげ》を観た(なかのZERO大ホール)。

オペラ・ブーフは言語的にはイタリア語のオペラ・ブッファがフランス語になったものだが、中身も異なったものになっていて、イタリアのオペラ・ブッファはレチタティーヴォを用いるが、フランスのオペラ・ブーフはセリフは全くのセリフなのだ(少なくともこの作品はそうだ)。
今回の上演では、歌唱がフランス語、台詞が日本語で、お芝居として気楽に楽しめるものとなっている。だから台本(リブレット)はとても重要だ。日本語訳は原訳和田ひでき、字幕製作
増田恵子(敬称略、以下同様)となっていて、推察するに後者あるいは両者で協力してギャグや時事ネタを付加した部分があるのかと思うが、うまくできていて笑える台詞、受けている箇所が何箇所もあった。クスクス、時にゲラゲラ笑えるオペラもいいものだ。
青ひげ、と言えばバルトークが思い浮かび、こわーい話、何人も奥方を殺し、新妻にあの部屋だけは見てはいけないと言いつつ鍵を渡す、新妻がその部屋を開けると、過去の妻の死体が。。。。ところが、メイヤックとアレヴィと云う台本の作者たちは、本当は王女の花売りとそれを見初めて羊飼いのふりをしている王子というカップルを加えて、王女の親夫婦のずっこけぶりも加えコミカルな話に変えている。青ひげの過去の妻たちの殺害を命じられた錬金術師のポポラーニが、特別な麻酔薬で眠らせらだけで殺してなかったというオチになっている。
というわけで楽曲も、軽いノリの曲が多い。全体に好演だったが、弾むノリでテンポを上げても良いのではという箇所もあった。青ひげ公の及川尚志は力強い声、コミカルな演技を両立させ見事だった。菊池美奈のブロット、ポポラーニの佐藤泰弘も歌唱、台詞、演技ともにバランスが良い。ボベーシュ王夫妻の掛け合いも楽しかった。また青ひげの5人の妻(死んだはずだが生きていた、小野、別府、沖、溝呂木、中野)も、ソプラノ3人、メゾ2人でそれぞれにしっかりとした歌をきかせてくれ、アンサンブルにも手抜きがないし、見た目も華やかであでやかでよかった。
オッフェンバック自身がどう考えていたかは別として、お芝居として楽しいオペラで、歌手たちは演技者として演技でもセリフでもおおいに楽しませてくれた。演出や衣装も適切であったと思う。青ひげ公はちょうちんブルマーのような短いパンツであり、女性たちはロングドレスというのも好対照で効果的だった。無論、ある時代まで脚をみせるのは男で、女性は脚をドレスで隠していたのは歴史的事実にもとづいているわけだが、今回の舞台では、おおむね男たちが滑稽で、女性がそれを明るく暴露していくというお芝居で、その役回りと服装が響きあっていたように思う。
いつも珍しいオペラを発掘し享受させてくれる東京オペラ・プロデュースに感謝。

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2016年2月 3日 (水)

イェスティン・デイヴィス、マスタークラス

デイヴィスのマスター・クラスの続きです。

実際のレッスンでも新田さんのあと休憩が入った。
後半の生徒は村松稔之さん。ピアノ伴奏は伊藤明子さん。こちらはカンタータの「心はときめく(Mi palpita il cor)」(HWV132c)。レチタティーヴォ、アリア、レチタティーヴォ、アリアという構成。2つのアリアは歌詞もメロディーも別。
このカンタータのレチタティーヴォはレチティーヴォといっても相当にメロディー的でなおかつアジリタ(コロラトゥーラ)の部分まである。新田さんの場合もそうだったが、まず最初は通して全曲を歌った。アジリタの部分をとりあげ、今はのどのところで音程をコントロールしているが、それだと10年後には喉を痛める可能性が高い。そうならないために、まず、その早いフレーズを練習の時にはゆっくり歌ってお腹でコントロールする。横隔膜をうまく使う。横隔膜は力をいれっぱなしでなく柔軟にする。練習の方法を具体的に示してくれた。まず全部スタッカートで。次に2音ずつレガートにして。つぎには3音ずつレガートで。つぎには付点をつけて。さらに付点の位置を逆にして。そして音と音の間をポルタメントをつけて音程を連続させて歌う。つまり同じフレーズをさまざまな方法で歌って、のどで音程をコントロールしなくても歌えるようにする。
別のところでは、フレーズの出だしで、直前に息を吸うのではなく、自然な呼吸で吐くときに歌い始めるようにと。たしかにそのほうが自然に聞こえる。
村松さんも O Nume (ああ神よ)のところで、ヌーーーーーメーーと歌っているのをもっと短くてよいと言われていた。デイヴィスは誇張的な表現は最小限にという方針なのだ。
また、村松さんが他の歌手の録音を聞いたか?と尋ね、ジャルスキーとショルを聞いたと答えると、ジャルスキーはいい歌手だけど、彼のように音程を揺らすと、彼の真似、影響を受けているとすぐわかる、君らしさが大事だと。ショルに関してはのどで音程を調整するかしないかの指摘があった。
また、歌詞をメロディーをつけずに朗読する練習もあった。内容に即して歌うための練習である。
アジリタでアアアアアアアと歌っている場合でもなんという単語の途中であるのか、たとえばティランノ(暴君)のラがのびてアアアと言っている場合、その暴君という思いをこめて歌うべきて気楽にアアアと歌ってはいけないとの指摘。
2番目のアリアは、もしつれないあの人が僕のことを好きになってくれるなら、今ぼくが抱えている苦悩は去って、心は満足だ、というような内容の歌詞。このアリアは小節のあたまに8分休符があり、ンタタタというリズムになるのだが、ンの部分の休符をくっきり出すように、つまり歌い手の切迫した衝動が伝わるようにと言っていた。たしかにリズムをくっきりすると、音楽の表情が立つのだった。
誤解はないと思うが新田さんも村松さんも最初聞いた時点では十分上手に聞こえたのであり、デイヴィスも歌唱の美しさをほめたうえで様々な注意、アドバイスを与えている。ここでは注意をうけた点を詳しく書いているので、決して彼らの歌唱が問題点だらけだったと言いたいのではない。デイヴィスの指摘をうけると、たしかにその通りで、そこを修正をくわえると場面がいきいきとしてくる。立体的になる。せっかくの美声をさらに活かすためのアドバイスである。また、解釈でも、デイヴィスは場所によっては、ここは大きくわーと歌ってもいいし、自分の内面的に語りかけるように歌っても良いと、チョイスを与える場面もあった。決して、自分の一方的解釈を押し付けているのではなかった。場所によって、こうなるのが自然という場所と、選択肢がある箇所があるわけである。
とても有意義な公開レッスンだった。司会者の話では、デイヴィスのほうからもちかけた話であったようだ。

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イェスティン・デイヴィス、マスタークラス

カウンター・テナーのイェスティン・デイヴィスのマスタークラスを聴いた。マスタークラスというのは要するに公開レッスンである(武蔵野市市民文化会館小ホール)。

小ホールとはいえ、正面にはパイプオルガンが据え付けられ、客席の両側は大理石で堂々たるものだ。
生徒役は、2人いて、両者とも若手のカウンター・テナー。 最初に歌ったのは新田壮人さん。国立音大修士の2年である。ヘンデルのオペラ 《ロデリンダ》(HWV19)からベルタリードのレチタティーヴォ「死の空虚な壮麗さよ(Pompe vane di morte)」と続くアリア「愛しい人よ、あなたはどこへ(Dove sei, amato bene)」を歌った。ピアノ伴奏は伊藤眞祐子さん。新田さんの歌は、声量もあるし、きれいな声で、叙情的な表情づけもある。
この歌は《ロデリンダ》の第1幕6場で比較的始まって間も無い頃に出てくる。ロデリンダというのは王妃で、ここで歌うのはベルタリードという彼女の夫。本来は王で、ロデリンダの夫だったのだが、戦いに敗れ、逃走し、死んだと考えられていた。身をやつしてベルタリードは帰国する。すると、驚いたことに、自分の死を告げるモニュメントを発見するというのがこの場面。デーヴィスは新田さんのアリアの歌唱を褒めた上で、まずレチタティーヴォがどういう場面であるかを彼と聴衆に説明する。そしてレチタティーヴォ「死の空虚な壮麗さよ」に入る前のピアノ伴奏(本来、小編成のオケ)を解析し、堂々たる伴奏は、ベルタリードが大きなモニュメント(そこには自分が死んだことが書かれている)に気づき、見上げる様子を表出しており、もう一つの可憐なメロディーは妻ロデリンダを慕う感情が出ているという。そこから第一声の「死の空虚な壮麗さよ」が来るわけだ。だから、デイヴィスは、Pompe vane di morte の部分は朗々と歌うのではなくて、驚いて、とくに最後の死(morte)は吐き捨てるように、語るように発声したほうがよいというアドバイス。
読者もここでうっすらお気づきかもしれないが、18世紀やそれ以前の文学では、最初にかなり抽象的な表現で言っておいて、だんだん具体的な話になる、ああそういうことか、となるパターンがある。ここもそうで、いきなり「死の空虚な壮麗さ」と言われても理解しにくいが、堂々としたモニュメントに反発している、そういう状況を仕草、顔の表情、発声の仕方で聴衆にわからせる必要性を強調していた。
この場面ではまず驚いて、その後、墓碑の文章を読み上げ、そのあとでアリアになって、妻ロデリンダに君はどこにいるんだい?と切々とうったえるわけだ。デイヴィスはレチタティーヴォでも、アリアにおいても、手を動かすことは最小限に(先述の観客の理解を助けるために必要な場合は別として)するよう求めていた。ヴェルディやプッチーニではないとも。
また、自分の墓碑銘を読むところも、歌うように朗々とではなく、淡々と(つまり今、初めてベルタリードは読むわけだから)読むようにレチターレしなさいと言っていた。
アリアの出だしは前のところと気分・感情が変化するので一呼吸おいて、と。
新田さんは熱をこめてまず最初の単語のDove をドーーーーーーヴェと長く歌っていたが、もっと短くでよいと。全体にデイヴィスのアドバイスは、バロック的な過剰さ(音楽的にもジェスチャーも)を抑制し、むしろ知的で、すっきりとした表現を求めていた。たしかに、そのほうがヘンデルの音楽はよく伝わる。
デイヴィスも熱がこもってくると、通訳の方を待たずにどんどん喋ってしまうのだが、歌の場合は、こんな風にと本人が歌いながら(ソット・ヴォーチェでですが)言っているので大体はわかるのだった。
アリアは、ヘンデルの通例でダ・カーポアリアなのだが、ABA’でA'のときに装飾音符を付加するが、デイヴィスはどういう気持ちで付加するかを考えろと言う。つまり二回目だから装飾するというだけでは不十分で、気持ちが高ぶっているのか、情熱を表現したいのか、それとも諦めの気分なのかによって、つけるべき装飾音がかわってくる、あるいは歌い方が変わってくるからである。なるほど。
オペラを演じるときに、リブレットをきちんと読み込み、このレチタティーヴォがどういう状況で言われるのか、またそのセリフの進展のなかで、これこれのジェスチャーは必要といった具合にきわめて知的な読解作業が行われたうえで、情感がこめられるという納得のいくレッスンでした(続く)。

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