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2015年12月31日 (木)

《アルタセルセ》

東京音大の公開講座で、中川さつき氏のレクチャー、「《アルタセルセ》と十八世紀ローマの劇場」を聞いた(10月28日)。

中川さんの話は、とてもわかりやすく比喩が卓抜で、例えばヘンデルのオペラはイギリスで上演されていたため、観客があまりリブレットを理解しないので、アリアを次々と歌う曲に仕上げたというときに三波春夫歌謡ショーみたいなものです、と言った表現が出てくるのである。うまいなあ。
我々は、というと語弊があるかもしれないが、少なくとも僕はつい最近までバロック・オペラやオペラ・セリアは面白くないものと決めつけていた傾向があったのだが、実際に聴いてみるとバロック・オペラは音楽的にもストーリー的にも面白いものが数多くある。
このレクチャーで取り上げられたのはウィーンの宮廷詩人メタスタジオであり、彼の書いたリブレットに作曲された《アルタセルセ》である。メタスタジオのリブレットの常としてこのリブレットにも多くの作曲家が曲をつけた。が、ここで特筆したいのはレオナルド・ヴィンチの《アルタセルセ》だ。個人的には、今年一番の音楽的出会いであった。《アルタセルセ》はDVDもCDも大変優れた演奏のものが出ており、レクチャーで説明があった通り、1730年当時のローマでは女性歌手が認められていなかったので、すべての登場人物がカウンターテノールとテノールによって歌われているのだ。つまり、歌舞伎に女形がいるように、このオペラでは王女や貴族の女性がカウンターテノールによって歌われている。
レオナルド・ヴィンチは、無論、あの有名な画家とは別人である。ヘンデルやヴィヴァルディと同時代に大活躍していたわけだが、僕は今年になって遅ればせながらはじめてそのオペラに親しんだ(残念ながらライブではなく、DVDとCDである)。CDでは《ウティカのカトーネ》もあるのだが、《アルタセルセ》が一層素晴らしく、この曲はオペラの歴史の中でも傑出した大傑作ではないかと僕は思う。講演の会場には中川さんだけでなく、《アルタセルセ》の上演をヨーロッパで実際にご覧になった方が複数いらして羨望の念を禁じえなかった。とはいえ、このレクチャーを契機にレオナルド・ヴィンチの《アルタセルセ》のDVD、CDを知ることができたのは大きな収穫だった。この演奏は、オケや指揮も素晴らしいが、カウンターテノールのフランコ・ファジョーリの歌が圧巻である。Youtubeでも見ることはできる(ただし字幕がない)。市販のDVDにも日本語字幕がないのは残念だが、ストーリーは比較的わかりやすく、演出も素直でストーリーを追うのにさほどの困難は感じないと思う。
レクチャーの中では、同じリブレットに対してヨハン・クリスチャン・バッハが作曲したアリアも紹介された。メタスタジオのリブレットに作曲されたオペラの魅力を解き明かしてくれ、レオナルド・ヴィンチとの出会いの契機をいただいた中川さんに深く感謝。

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2015年12月26日 (土)

音楽狂言《寿来爺》

音楽狂言《寿来爺》を観た(中野・梅若能楽堂)。

寿来爺はスクルージで、ディケンズの『クリスマス・キャロル』が原作である。台本を作った長屋晃一(敬称略、以下同様です)がパンフレットで、この作品および上演が成り立つまでの経緯を書いている。
そもそもがこの上演がクラウド・ファンディングに基づいている。この音楽狂言の上演に賛同した方々が出したお金で成り立った上演なのである。ただし、その金額は37万円で、実際にはそれは今回の上演をヴィデオ録画するための費用であったということだ。
音楽狂言というのは、次のような事情による。ヴァイオリニスト・河村典子、コントラバス奏者•白土文雄、そしてギタリストかつ作曲家のワルター・ギーガーが1985年に室内楽トリオ「オーケストリオ」を結成し活動を始めた。ヴァイオリン、コントラバス、ギターのトリオというのは珍しい。既存のレパートリーがないので、各国の作曲家に委嘱し、またギーガーが曲を書いたという。
2002年に河村がギーガーに《クリスマス・キャロル》を委嘱する。編成はヴァイオリン、コントラバス、アコーディオンで約1時間の大作。当初はパントマイムとともに上演することを考えていたがパントマイム役者が降りてしまったのだという。そのため2003年に朗読つきの音楽作品として初演。
約10年が経過し、ギーガーが、シャルパンティエのオペラを能・狂言を演出に組み込んだ上演を見たことをきっかけに、《クリスマス・キャロル》を狂言にできないかと提案。
長屋の台本は、狂言として全く違和感がない。むろん、そこには善竹十郎、大二郎親子が、練習段階で役柄にふさわしい言葉に落とし込んでいくプロセスによって磨きがかけられたのであろうが、完成度が高いと感じた。
当日の上演は2部構成で、前半は、ヘンデル、ヴィヴァルディ、パッヘルベルの演奏(原曲をヴァイオリン、アコーディオン、コントラバスのトリオに編曲したもの)。聞き慣れると、少し変わった編成でもバロックの世界に入っていけるものだ。
第二部がいよいよ音楽狂言《寿来爺》だ。率直に言って、私は狂言として大いに楽しめた。それは何より、善竹十郎の確かな芸によるところが大きいと思う。ここにあげた写真は練習風景なのだが、装束をまとった氏は、まごうことなく狂言の登場人物で、しわい(けちんぼの意)
寿来爺(スクルージ)になりきっている。彼は、過去、現在、未来の霊に導かれ、自分の過去・現在・未来を見る。シリアスな場面、とぼけた場面、演じ分けがピタッと決まる。リズムも含め見ていて気持ちが良い。一方、能・狂言の文法にのっとって霊は面をつけているが、善竹大二郎はそれぞれに装束と歩みを変え、3者(3つの霊)を演じ分けており、張りのある発声とともに説得力があった。
ギーガーの音楽は特定の音型を繰り返していくタイプの音楽で、現代音楽としては聞きやすいものだが、長屋が記しているように、まず音楽があったというものなので、狂言の言葉に合わせた音楽ではない。オペラの場合、通常は、リブレット(台本)が先にあるか、あるいは、リブレッティスタ(台本作家)が作曲者と相談しながらリブレットを作り、それに曲をつけていく。だから、この狂言の場合は、劇の付随音楽として聴いた。こういう付随音楽と古典演劇も、長屋の区分が生きてほとんど違和感はなかった。演奏者たちも狂言をサポートしようという基本姿勢を持っていたのではないかと思う。であればこそこのコラボレーションが成功したのであろう。
全体として、個人的には、狂言の型の強み、柔軟さ、そして善竹十郎の芸に魅せられた。作品としてもまさにクリスマス、いや降誕祭にふさわしい演目で、繰り返し上演されるにふさわしいものだと思った。
ちなみに『クリスマス・キャロル』の霊の意味合いについては道家英穂の『死者との邂逅』に詳しい解説がある。この本は一章を『クリスマス・キャロル』にさき、イギリスにおいて国教会の成立とともに一時は亡霊の存在が否定されるが、ピューリタン革命、王政復古をへて、霊の存在が要請されるようになったこと、『クリスマス・キャロル』が一種のゴースト・ストーリーのパロディとして読めること、現在のクリスマスのあり方(宗教性が薄まっている)はディケンズが作り出した面があることなどが述べられている。

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2015年12月 9日 (水)

『兵士になったクマ ヴォイテク』

ビビ・デュモン・タック著、長野徹訳『兵士になったクマ ヴォイテク』(汐文社)を読んだ。

 

不思議と言えば不思議な話である。第二次大戦は周知のごとくドイツ軍のポーランド侵攻で始まるが、この話は、ポーランド軍兵士達がイランに逃げて、そこでクマの子を拾い、そのクマを飼いながら行軍を続けていくというもので、舞台は、南イタリアやスコットランドへと展開する。

奇妙な話に思えるが、これは実話に基づいているとのことだ。

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