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2015年10月 7日 (水)

《ラインの黄金》

飯守泰次郎
ワーグナーのオペラ《ラインの黄金》を観た(初台、新国立劇場)。
《ラインの黄金》は、ワーグナーの大作《ニーベルングの指環》の序夜、もっとひらたく言えば、四部作の第一部に相当する。
ゲッツ・フリードリヒの演出に判りにくいところは特にない。巨人族の衣装がロボットのようで面白おかしかったが。
ワーグナーで雄弁なのはなんといってもオーケストラパートである。印象に残るメロディ、フレーズもたいていのものは歌手の歌うメロディとしてではなく、オーケストラのトゥッティや金管の炸裂などとともに記憶にとどまるであろう。出だしの部分もそうで、同じ音型のフレーズが何十回と重層的に繰り返される。それがまた、効果的であるのだ。
指揮者飯守泰次郎(敬称略、以下同様)は、このプロダクションのホームページの楽曲解説動画を見ても判るのだが、楽曲を知り抜いているだけでなく、解説も実に巧みで、これならオーケストラも歌手も指揮者の指示に納得がいった上で演奏できるだろうと推察される。なにより、マエストロ自身が、この曲が好きでたまらないといった風情にあふれているのだ。
ストーリーは、まず地底族のアルベリヒがラインの乙女たち(水の精)にからかわれ、愛欲を断念することで、ラインの黄金を奪い取る。神々の長ヴォータンは火の神ローゲの悪知恵を用いてこの黄金および黄金の指環を奪ってしまう。
その前にヴォータンは巨人族に、ヴァルハラ城を建てたら妻の妹フライアをやると約束しておきながら、城が出来上がると言を左右して約束を守ろうとしない。
ヴァーグナーの楽劇に登場する神々は実に強欲で、おのれの欲望むき出しで、あまり立派な人格(神格?)を持っていない。神々という高位のものが卑俗な欲望にまみれ、行動もその自分の欲望を抑えることができないというストーリーである。これはちょうど、ヴェルディの世界では、卑しい身分(たとえば道化のリゴレット、あるいは娼婦のヴィオレッタ)の者が気高い心を見せるのと対照的な関係にあると言ってよいだろう。どちらも、高い身分の人が立派な美徳を備えている(はず)というオペラセリアの約束事を打ち破っている点では共通している。
もちろん、ヴァーグナーやヴェルディの描き方も当初は革新的なのだが、時代が経過すればこれもまた一つの約束事になってくるわけで、そういった描き方が当たり前になって、さらにはそのなれの果てを映画やテレビドラマでさんざん見せられているわれわれとしては、オペラセリアの世界観のほうがむしろ新鮮に見えたりする(場合もある)。
歌手はローゲのステファン・グールド、巨人族ファゾールトの妻屋秀和、エルダのクリスタ・マイヤー、フロスヒルデの清水華澄が秀逸であった。

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