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2015年8月18日 (火)

《イル・トロヴァトーレ》

イメージ 1ヴェルディのオペラ《イル・トロヴァトーレ》を観た(ザルツブルク祝祭大劇場)。

指揮ジャナンドレア・ノセダ。吟遊詩人マンリーコがフランチェスコ・ネーリ。その恋人レオノーラがネトレプコ。恋敵(で実はマンリーコの兄)ルーナ伯爵がアルトゥール・ルチンスキー。ジプシーのアズチェーナがエカテリーナ・セメンチュク。フェッランドがアドリアン・サンペトレアン。

超一流の歌手と指揮者とオーケストラであるが、人間というのは贅沢なもので、不満がないわけではないのだ。
2幕が終わったところで休憩がはいったのだが、前半、ノセダの指揮はところどころテンポが遅い。ルチンスキーも俺の声を聞けといわんばかりに音をのばしすぎるところがあった。ヴェルディの楽曲は、歌手にすべてをドラマに尽くせと要求している。歌手はその役柄になりきれば、声を誇示しなくても、観客は十二分に声を堪能するように、曲想もオーケストレーションもできているのだ。
3幕からはノセダが盛り上がるところでは多いにテンポをあげた。オケはついてくる、しかし合唱がその盛り上がりについてこない。ほんのすこし遅れ気味で水を差すのだ。
これは普通の曲なら十分ゆるされると思うが、マンリーコのディ・クェッラ・ピーラでは致命的にネガティブだった。残念である。オケのノリも《フィデリオ》の時に比べると、一段階魅力を減じていた。無論、美しく、合奏能力もきわめて高いのではあるが。その差がノセダとウィーンフィルの付き合いと ヴェルザーメストとウイーンフィルとの付き合いの差からうまれるのか、ウィーンフィルのベートーヴェンとヴェルディへの共感力の差から生じるのかはわからない。両方かもしれない。ウィーンフィルの粘りというか腰のある響きが、ベートーヴェンやモーツァルトには理想的に響くのだが、ヴェルディではもっとパーンとドライにふっきれる響きのほうがぴったりくる面があるのも否定できないところではある。
歌手はサペトレアン、メーリが良かった。ネトレプコもさすが。ルチンスキーもテンポが早いところはよかった。
演出は、美術館の中で、学芸員や解説者が登場人物に変身したり、絵のなかの人物が登場人物になったりするもの。これでもかと聖母子像がでてきてウフフではあっtが。悪くはない演出でヴェルディ演出の可能性の一つではあると感じた。
現代における最高の歌手・指揮者・オケのそろった上演に、ヴェルディのドラマの深さを感じると同時に、せっかくこれだけのメンバーがそろったのだから、21世紀の新たなヴェルディ像の方向を、音楽的に示唆してくれるかという期待もなくはなかったが、ぼくにはそういう方向性は見出せなかったーーないものねだりかもしれないけれど。
字幕はドイツ語と英語がでていて、原語はイタリア語である。英語字幕を追ってみていたが、意味としては正しいものの、言い回しの格調の高さはまったく消え失せている。字幕の役割を考えればいたしかなたいとは思うが、カンマラーノの原文とじっくりつきあってみたいという気持ちがわいた。

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