《新聞》

めったに上演されることのない《新聞》であるが、隠れた傑作ではないか、と思った。初演は1816年で、《セビリアの理髪師》と《チェネレントラ》の間にはさまれ、ロッシーニのオペラブッファ(《チェネレントラ》はオペラセミセリアとも言えるが)の腕前が油が乗り切った時期に書かれている。このオペラが両者にくらべて人気がないのは、ストーリーと音楽的な構築が複雑で、作品全体を理解するのがむつかしい面があるからではないかと思った。それは逆に言えば優れた上演をするのもむつかしいし、演出にも指揮者にも歌手にも大きな負荷がかかる作品だということだが、同時に、すぐれた上演に出会ったときの充実感もひときわ大きいということで、今回の上演はそういう類のものだったと言ってよいかと思う。
ストーリーは面白いのだが、登場人物が多いのだ。
そもそもの話のはじまりはアルベルト(マクシム・ミロノフ)が世界中を探し求めたが理想の女性はいなかったという嘆きからはじまる。そこへある新聞の広告が飛び込んできて、ドン・ポンポーニオ(ニコラ・アライモ)という男が自分の娘リゼッタ(ハスミク・トロージャン)の婿募集をしていることがわかる。しかしリゼッタはすでにフィリッポ(ヴィート・プリアンテ)と恋仲である。これだけならよいのだが、もう一組父・娘がいる。アンセルモ(ダリオ・シクミリ)とドラリーチェ(ラファエッラ・ルピナッチ)だ。アルベルトが広告にそそられて、リゼッタに迫ろうとすると、フィリッポがこれは私の妻だと言うので、アルベルトはドラリーチェが広告の対象の女性かと思い込む。こうした虚実ないまぜの人違い、取り違え、さらにはフィリッポが金持ちのクウェーカー教徒に扮して登場するなど、人間関係が混乱して、 最後は2組のカップルに対しそれぞれの父親がしぶしぶ承認してめでたしめでたしとなる。
カップルが2組いるし、父親も2人いるので、筋立ての点で複雑さが2倍、3倍になっている。
ロッシーニはそれに見合った形で普段聞いたことのない曲想、メロディーやリズムを駆使して、自分のパレットにある色を総動員して人物や場面を描き分けている。
指揮のエンリケ・マッツォーラは、たまに強引なところもあるものの、とにかく構築的な指揮。でなければ、この作品の構造が観客に伝わりきれないことを深く認識している。個々の歌手は、その描き分け、音楽的特徴を明らかにするという(おそらくは指揮者からの)要求に非常に高いレベルで応えていた。
演出はマルコ・カルニーティ。シンプルな装置なのだが、複雑なストーリーの交通整理にうまく機能していたし、色や形もオシャレだった。
ドン・ポンポーニオはナポリ方言を次々と繰り出してその見栄っ張りで滑稽なキャラクターをきわだたせていたのだが、なかなか細かいニュアンスが把握できなかったのがはがゆい。ナポリ方言を少し勉強しなくてはと思った次第。
実は観がいのあるオペラだということを理解した一夜だった。
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