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2015年8月17日 (月)

《フィデリオ》

ベートーヴェンのオペラ《フィデリオ》を観た(ザルツブルク祝祭大劇場)。


指揮はヴェルザーメスト。オーケストラはヴィーンフィル。これまで放送などでヴェルザーメストの演奏を聴くことはあったが、実演ではじめてその真価を知ったように思う。
ヴェルザーメストは外見にせよ、指揮ぶりにせよ、いわゆるカリスマ性を振りまいているわけではない。むしろオーソドックスである意味では地味に見える。しかし、実際に音をきくと実に純度が高い。ヴィーンフィルの持ち味はそのままで純度が高くなった気がする。
彼の指揮棒から繰り出される音は、まるでたしかな腕前の修復士によってオリジナルの色合いを蘇らせた絵画のような面持ちを持っている。積年の習慣・慣習をきれいに洗い流し楽譜のオリジナルな響きを聞かせているという印象を持つ。楽譜の細部を聴かせる演奏というと、とかくテンポが遅くていかがなものかというタイプや、演奏の力点が縦のラインがそろうことに行ってしまって楽曲の自然な流れが不十分にしか感じられない演奏に出会うことが多い。しかしヴェルザーメストの場合はまったくそういう懸念とは無縁で、装飾音や三連音符などをくっきり聞かせたりする一方で、テンポは必要に応じすっと早まったり、またリラックスして遅くなったり、オケが自然に呼吸するようだ。必要に応じてはどんどん突っ込んでいき、オケが一糸乱れずとはならないところまで行くのを彼はおそれない。いやむしろ盛り上がって高揚したときに、乱れるあるいは乱れる寸前までいって、また統一感が回復するところにも音楽の醍醐味があるということを自然に教えてくれる。
言って見れば音楽のダイナミズム(テンポや強弱や音色の変化)の積極性を犠牲にすることなく、音楽のテクスチャーが細密に描かれていく。だから分析的な演奏でもないし、細密なだけでテンポが止まってしまうかといういら立ちや退屈さとはまったく無縁のフレッシュな演奏になっている。
ヴィーンフィルの音がこうして純化されていってるのだと思う。フィルティッシモでも 音が強いだけでなく、実に調和にみちた倍音の響く音色で、迫力がありながら少しもうるさくない。それどころか、これがヴィーンの純正な音、基準となるべき音なのだと思わせるオーセンティックな響きを持っている。
演出は独特で、舞台中央に大きな直方体の石があるのはともかく、このジュングシュピール(アリアとオケなしのセリフからなる)形式のオペラにおいて、セリフ部分をとってしまったのだ。アリア的な部分のあと、默劇があり、またアリアになる。默劇の部分ではため息が聞こえたりもする。
さらに、レオノーラは男装しているわけだが、その女性性をあらわすもう一人のレオノーラがだんまり役で出てくる。出てくるだけではなく、手話をする。フロレスタンが救出されてめでたしも部分でも、本来のレオノーラではなく、分身レオノーラが一番前にでて、激しく早い身振りで手話(と思われるものを)やっているのだが、何が主張したいのか不明だった。
また、この演出では、カウフマン演じるフロレスタンはいっかんして怯えており、勇者ではない。ヒロイックであるどころか、頭を抱え、ぶるぶる震えている。牢獄から解放された後でも、喜びに満ちているというよりはPTSなのかうずくまってしまうといった具合。
劇の途中で最初にレオノーラがやってきたときも、レオノーラとの再会を喜ぶというよりは差し入れの酒瓶との再会を喜んでいるようだった。無実の罪で長年牢獄に閉じ込められていれば、そうなる可能性も十分あるのかもしれないが、このひねりが感動的ということもないし、作品からの新発見という感じも個人的にはうけなかった。
しかしながら、自分でも意外なことに、台詞を抜いてしまっても劇として成り立つんだと思った。それだけ、リブレットが弱いのだろうか。ジングシュピールという形式だからそれが可能なのか、軽々に判断はくだせないが、こちらは多いに衝撃、刺激を受けた。

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