《サウル》
ヘンデルのオラトリオ《サウル》を観た(グラインドボーン)。
オラトリオとは言うものの、歌手は舞台衣装を身につけ、合唱団も舞台衣装を身につけ、それぞれに演技をするのでオペラとして楽しめた。おそらく、オラトリオの上演はもっと演奏会形式に近い形の上演もあることと思う。
ヘンデルは周知のように、後半生をイギリスですごしているが、イギリスでの活動の前半はオペラが中心で、後半はオラトリオが重要な活動だったと言ってよいだろう。オペラの場合はイタリア語台本に作曲していたが、オラトリオの場合は英語台本に作曲した。今回の《サウル》も英語のリブレットにヘンデルが作曲したものだ。劇場では英語字幕がつけられていた。
オペラとの違いで気がつくのは、合唱がギリシア劇のコーラスのようにナレーションのような語りが入るところだ。演出家はそういう部分が退屈にならないように、群衆を身振り手振りをつけて動かし、踊りのようなことをさせたりしていた。
話は旧約聖書にもとづいていて、サウルというイスラエルの王がいて、ちょうどダヴィデが巨人ゴリアテをやっつけた時の王なのである。サウルは喜ぶべきなのだが、彼はダヴィデが自分を脅かす存在に成長するのではないかと怖れの気持ちを抱く。サウルの息子ヨナタン(ジョナサン、サウルも英語だとソールだが、旧約聖書の登場人物なのでここでは英語読みにはしないでおく)は、ダヴィデと仲が良いし、ダヴィデに邪心があるとは思っていないのだが、父からダヴィデを亡きものにするよう命じられて苦悩する。
やがて、サウルもヨナタンも滅び、ダヴィデが王の地位を継承するというのがストーリーだ。これはプログラムの解説によると、当時のイギリスの政治状況と重ね合わされて享受されたらしい。当時のイギリスはジェームズやチャールズの子孫が王権に復帰することをカトリック国と結びついて画策している一方、ハノーバーからきたジョージ1世およびその子孫が王位についていたわけである。とくにジョージ1世はほとんど英語も話さなかったらしくイギリス人にとっては外国人の王様なのだ。王権に対して立場によってまったく異なる見方がなりたちうる時代に、旧約からこの場所が選ばれて劇化されたわけである。
音楽もそれにふさわしいもので、堂々とした部分、叙情的な部分、ヘンデルはもうお手のものという感じだ。当日の演出は最初にゴリアテの巨大な首がごろっと転がっていてびっくりするがこれはストーリー上必然性があり違和感はない。ダヴィデとの結婚を命じられたサウルの娘が喜ぶシーンなどユーモアに富んだ場面にもことかかず、大いに楽しめた。オラトリオはこうやって演じれば、決してカビ臭くも、説教くさくもなく、むしろまさにドラマティックなのだということを教えてくれた上演だった。
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