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2015年7月12日 (日)

《ギヨーム・テル》

クリックすると新しいウィンドウで開きますクリックすると新しいウィンドウで開きますロイヤルオペラハウス(ロンドン)のライブビューイングでロッシーニの《ギヨーム・テル》(ウィリアム・テル)を観た。

ペーザロで最高のキャストでの実演を観たので大きな期待はしていなかったが、ロイヤル・オペラのような世界のメジャーな劇場で《テル》が再び上演されるようになったことを喜びたい。
演出は、ミキエレットで、テルの子供が歌わない時にもうごきまわっていて率直に言って目障りだった。ミキエレットだけでなく最近のオペラ演出家は、一度、文楽でも見て、セリフのない人は動かなくてよいのだということを確認してもらいたいと思う。
先日、バロックオペラの演出をしている方のレクチャーを聞いていたら、バロックオペラでもアリアを歌う人以外の登場人物は奥のほうに引っ込んでいて微動だにしなかったのだという。無論、18世紀の演劇と19世紀の演劇の様式が違うことは承知の上だが、歌う人以外の動きは音楽への集中をさまたげる。
また、ペーザロでのヴィックの演出でも少し感じたし、ミキエレットの演出ではなお一層感じたことだが、スイスの民衆へのハプスブルクによる抑圧を台本にあることよりも露骨に露悪的に演じてくれるのはありがた迷惑だと思う。抑圧について、そんなに露骨にやってくれなくても、観客には想像力がある。演出家は、自分にだけ想像力があって観客にはないと思っているのだろうか。こういう演出は過剰に悪趣味なロマン主義でとても古臭いと僕は感じるのだった。幅広くロマン主義が好きな人には受けるのかもしれないが。
音楽的には、オケがアッチェレランドができない、2度パッパーノがアッチェレランドをしかけてオケがつまづいてやめた箇所があった。これは残念ながら最近のオケに顕著な傾向だと思う。ロッシーニクレッシェンドはアッチェレランドとともにやると盛り上がるのだけれど。
歌手はテルのジェラルド・フィンリー(我が国の文化庁長官に顔が似ている)が好演。アルノルドとマチルデの恋物語もそれなりに楽しめたとも言えるが、ここでも演出的にはアルノルドがランニングシャツ姿が多いのがいただけなかった。プリンセスが来るときになんでランニング姿なのか。正装までしなくてもいいけれど。
バレエ音楽のときに、無理やりリブレットにない所作を歌手に演じさせているのも苦しかった。バレエ音楽はかなり省略されていたのは、パッパーノは上演時間のせいだと言っていたがバレエダンサーを使わない場合、かえってそのほうがすっきりしていると思った。
とはいえ、ロッシーニの音楽は何度聞いても素晴らしい。《テル》は真に偉大なオペラ作品である。

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