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2015年7月19日 (日)

《フラーヴィオ》

ヘンデル作曲のオペラ《フラーヴィオ》を観た(東京文化会館小ホール)。

日本ヘンデル協会の主催によるもので、7月17日の1日だけの公演であるが、1日だけであるのがもったいないような大変充実した演奏であった。
日本ヘンデル協会はヘンデルの研究および紹介・普及につとめている団体で、この上演に関しても数回の研究会を催しており、ぼくもそのうち2回に出たが、作品理解にとって、とても有益であった。
音楽監督をつとめる原雅巳(敬称略、以下同様)は、指揮と演出をかねる立場のようだが、ジェスチャー研究もしておられて、バロックオペラにおいてはどのような仕草、ジェスチャーを歌手がしたのか、を様式的に追求している。その指導のもとに、歌手たちは舞台上を動き、手を動かしたりするのだが、様式美にあふれたものである。原氏がプログラムに詳しく書いておられることだが、当時は、舞台に立つ人からみて右側にえらい人、身分の高い人が立つ、舞台上を直線的には動かない、などのルールがあったようだ。手の仕草も様式的で、それは歌手たちがドレスを着て、化粧をし、カツラをかぶって西洋の王侯貴族になっているという舞台上の約束にふさわしい。
当時は人気カストラートのセネジーノが歌ったグイドの役は、カウンターテナーの上杉清仁が歌い演じたが、実に技巧的に達者で舞台姿も堂々としており、バロックオペラは歌手の技量によるところ大であるとの印象を再確認した。
エミーリア役の加藤千春も高度な技巧を安定したテクニックで聴かせた。小倉麻矢のテオダータ、平野香奈子のヴィティージェ(ズボン役)は、ヘンデルのオペラにコミカルな面があることをたっぷり味あわせてくれた。テオダータ(グイドの妹)とヴィティージェは恋人なのだが、ヴィティージェはそのことを王フラーヴィオに伏せていたために、フラーヴィオがテオダータを口説きにかかってややこしいことになる。テオダータは王の懸命の口説きに応じそうになるのだ。
二組の恋人たちの父ウゴーネ(テノール)とロターリオ(バリトン)には、とくにロターリオには低声にふさわしい父親らしいアリアがあって、ヘンデルの巧みさが光る。音域にふさわしい音楽を自在に書いた点ではモーツァルトとヘンデルは似ているかもしれない。
原雅巳のテンポ設定は、とても心地好いもので、グイドのアリアではここまで早くして大丈夫と思うくらいの快走であった。むろん歌手やオケの技巧あってのことであるが、こちらもわくわくドキドキしてまさに音楽的快感を味わったのであった。

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2015年7月13日 (月)

アルファーノ《復活》

クリックすると新しいウィンドウで開きますアルファーノのオペラ《復活》を観た(新国立劇場、中劇場)。

アルファーノと言えば、プッチーニの遺作《トゥーランドット》の補筆で有名だが、プッチーニの弟子というわけではなく、年下の友人・知己ということになる。

プログラムに書かれているように、アルファーノはナポリ近郊で生まれ、ナポリそしてライプツィッヒで音楽の勉強をする。ライプツィッヒではリストの弟子に教えを受けている。

《復活》の原作は、トルストイによるもので、原作は1899年発表。この時代は

サイレント映画の時代であるが、復活はいろいろな国で映画化され日本でもなんども映画化されているし、お芝居としても演じられ松井須磨子がカチューシャを演じて大ヒットした。ヘアバンドのことをカチューシャというのは日本だけらしい。つまりお芝居が大ヒットしたので、便乗商品がいっぱい出て、そのうち、ヘアバンドは一時的なものでなく定着したわけだ。

アルファーノは1902年にパリでお芝居として観たらしい。そこへローマでカミッロ・アントーナ・トラヴェルシがイタリア語で演劇化したとの知らせを聞き、チェーザレ・アノー(アナウかもしれない)がリブレットを書いてオペラ化がなされた。

4幕仕立てとなっている。芝居は、判りやすいように、時間軸にそった展開となっている。1幕はディミトリ(貴族)とカチューシャ(ディミトリの叔母の召使)の出会い。2幕はディミトリの子を宿したカチューチャが勤め先を追放され、駅でディミトリと会おうとするが、むなしく終わるところ。3幕は、子を亡くし、娼婦になったカチューチャがあやまった裁判でシベリア送りになりかけているところ。4幕はシベリアへ向かう道すがらで、カチューシャは政治犯シモンソンと出会い精神的には立ち直っている。そこへディミトリが救いにくる。2人は愛を確かめ合ったあと、しかしながら、別々の道を歩むことにする。

ストーリー上も、3幕、4幕がもりあがる。僕が観たのは日曜日で、ディミトリは古橋郷平(以下、敬称略)。彼の舞台は数度見ているが、今回が一番良かった。この人は背が高く舞台栄えがするのだが、今回、歌唱にも力があった。声の状態も良かったと思う。カチューシャの垣岡敦子も熱演。非常に幅広い音声の表情を駆使して、純情なカチューシャから自暴自棄のカチューシャまでを説得力をもって演じ分けていた。

アルファーノの曲作りは、プッチーニを想起されるところもあるが、独特のところもある。場面が緊迫したときの小刻みなリズムはなかなか聞き応えがあった。

全体として、この時代のオペラに対するわれわれの理解を1歩も2歩も進めてくれる大変有意義なもので、なおかつストーリは〟金色夜叉を思わせるところもあったりして明治日本でも受けたことに妙に納得がいった。いろいろな味わい方ができる作品だと思った。



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2015年7月12日 (日)

《ギヨーム・テル》

クリックすると新しいウィンドウで開きますクリックすると新しいウィンドウで開きますロイヤルオペラハウス(ロンドン)のライブビューイングでロッシーニの《ギヨーム・テル》(ウィリアム・テル)を観た。

ペーザロで最高のキャストでの実演を観たので大きな期待はしていなかったが、ロイヤル・オペラのような世界のメジャーな劇場で《テル》が再び上演されるようになったことを喜びたい。
演出は、ミキエレットで、テルの子供が歌わない時にもうごきまわっていて率直に言って目障りだった。ミキエレットだけでなく最近のオペラ演出家は、一度、文楽でも見て、セリフのない人は動かなくてよいのだということを確認してもらいたいと思う。
先日、バロックオペラの演出をしている方のレクチャーを聞いていたら、バロックオペラでもアリアを歌う人以外の登場人物は奥のほうに引っ込んでいて微動だにしなかったのだという。無論、18世紀の演劇と19世紀の演劇の様式が違うことは承知の上だが、歌う人以外の動きは音楽への集中をさまたげる。
また、ペーザロでのヴィックの演出でも少し感じたし、ミキエレットの演出ではなお一層感じたことだが、スイスの民衆へのハプスブルクによる抑圧を台本にあることよりも露骨に露悪的に演じてくれるのはありがた迷惑だと思う。抑圧について、そんなに露骨にやってくれなくても、観客には想像力がある。演出家は、自分にだけ想像力があって観客にはないと思っているのだろうか。こういう演出は過剰に悪趣味なロマン主義でとても古臭いと僕は感じるのだった。幅広くロマン主義が好きな人には受けるのかもしれないが。
音楽的には、オケがアッチェレランドができない、2度パッパーノがアッチェレランドをしかけてオケがつまづいてやめた箇所があった。これは残念ながら最近のオケに顕著な傾向だと思う。ロッシーニクレッシェンドはアッチェレランドとともにやると盛り上がるのだけれど。
歌手はテルのジェラルド・フィンリー(我が国の文化庁長官に顔が似ている)が好演。アルノルドとマチルデの恋物語もそれなりに楽しめたとも言えるが、ここでも演出的にはアルノルドがランニングシャツ姿が多いのがいただけなかった。プリンセスが来るときになんでランニング姿なのか。正装までしなくてもいいけれど。
バレエ音楽のときに、無理やりリブレットにない所作を歌手に演じさせているのも苦しかった。バレエ音楽はかなり省略されていたのは、パッパーノは上演時間のせいだと言っていたがバレエダンサーを使わない場合、かえってそのほうがすっきりしていると思った。
とはいえ、ロッシーニの音楽は何度聞いても素晴らしい。《テル》は真に偉大なオペラ作品である。

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