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2015年6月14日 (日)

『死者との邂逅ー西欧文学は《死》をどうとらえたか』

道家英穂著『死者との邂逅ー西欧文学は《死》をどうとらえたか』(作品社、2400円)を読んだ。

美しい本である。美しいのはフラ・アンジェリコの『最後の審判』による装丁ばかりではない。1つのテーマが繰り返し論じられていく様が美しい。ホメロスやウェルギリウスのなかで登場人物が死者と出会う場面、肉体がなくて抱こうとしても手が空回りする(しかもその行為は3回繰り返される)ところが、ダンテやそれ以降の書き手にも受け継がれていく。
こういったトポス(この場合、死者との出会いの場面)が、主題と変奏のように繰り返される様を具体的にたどってみると、まるで美術史で、受胎告知がさまざまな画家によって描かれており、先行作品を踏まえる部分と自分のオリジナリティを加える部分があるといった関係に似ていると思えてくる。
この本で扱われているのは、ホメロス、ウェルギリウス、ダンテ、ボッカッチョ、シェイクスピアの『ハムレット』、ディケンズの『クリスマス・キャロル』、そしてウルフ、ジョイス、プルーストである。強いていえば、英文学中心であるが、著者の視座は英文学にとどまらずむしろヨーロッパ文学のなかで死者との邂逅というトポスの起源がどこにあり、それがどう繰り返され、変化を被っているかということにある。
近代になれば、当然だが、死者や死への観念は変化する。たとえばヴァージニア・ウルフの『灯台へ』ではウルフの父レズリー・スティーヴンと母がモデルになった人物が登場する。ウルフの父は、敬虔な福音主義派の家に生まれた。両親が毎日イエスに話しかけているので、イエスは生きているのだと信じていた。そして聖職者になるのだが、イギリス経験論者の著作を読み、深刻な疑問を持つようになり、職を辞して不可知論者となってしまう。彼は2度結婚するが2度とも妻に先立たれる。著者によれば、不可知論者は死を受け入れることがきわめて困難だと言う。ヴィクトリア朝の後半では、信仰を持った人々は、たとえば妻や子が先に死んでも天国で再会できると信じており、そこに救いがもとめられたが、レズリー・スティーヴンは肉体を離れた霊魂の存在に疑問を抱いているためそのような考えに慰めをもとめることが出来ないのである。
一方で、死や死者との出会いが繰り返し描かれるが、近代に入り、特に第一次大戦後は多くの人がさらに上述の天国での再会という考えも信じられなくなってしまう。そこで最後に取り上げられているプルーストの独特の対処法?がとりあげられる。別離の経験により死への耐性が形成されるのだが、詳しくは本書を読んでいただければ幸いである。
叙述は、平易で読みやすい。何か新しい理論を振りかざしたり、派手な言い回しで人目をひこうというところもなく、作品のテクストによりそってテーマが実に具体的に叙述されていく。パースペクティブが広い論考というのはともすれば、むずかしい理屈をこねまわして、むやみに難解になりがちだが、本書はそういったところは微塵もない。実のある本である。

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