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2015年6月13日 (土)

脇岡洋平ピアノ・リサイタル

脇岡洋平 ピアノリサイタル 脇岡洋平さんのピアノ・リサイタルを聞いた(上野・東京文化会館小ホール)。(この記事、執筆段階ではアンダーラインを付していないのですが、ネット上では、筆者の意図と関係なくアンダーラインが付いてしまいます。あしからずご了承ください)。

まずヘンデル。脇岡(以下敬称略)のピアノは、てらいのない着実な演奏で、ピアノの響かせ方を無理にチェンバロに近づけようという工夫は見えず、ピアノとして自然に響かせていく。彼のピアノは主旋律部分と内声部、左手(和音であれ、旋律が受け渡される時であれ)が同じ丁寧さで常に弾かれる。これは口で言うのは簡単だが、実際には驚異的な高度な技巧の持ち主でなければ出来ない。音楽の書かれ方が複雑になってくると、旋律をくっきりひいて、伴奏部分はぐしゃっと音のかたまりになってしまうことも起こりがちなわけだが、彼のピアノではそれがヘンデルであれ、フランクであれ、リストであれ、全く生じないのである。
次のワーグナー=リストは後期ロマン派的な曲で、圧倒的に音が多い。ヘンデルとは対照的な曲であり、これがどうつながるのかと不思議な思いがした。が、フランクの曲を聞いて、実に納得がいった。フランクには彼の内部に後期ロマン派的な心情がうずまいているのだが、それがストレートにはあらわされずに、コラールやフーガといったバロック的な様式を通じて表現されるわけである。つまり、ヘンデルとワーグナーを足して、かきまぜて、絞り出したものがフランクの楽曲なのだということが、今回のプログラムでよくわかった。また、脇岡の誠実なピアニズム(派手さを狙うのでなく、旋律の多声を丁寧に表現していく)がよく活かされる。じわっと音楽的な充実につつまれ、いつの間にかこちらも熱くなっている。
後半は、リストの巡礼の年「イタリア」である。7曲からなり、第4,第5,第6曲はペトラルカのソネット47番、104番、123番がタイトルにかかげられている。可憐な趣きのある曲だ。それに対し、終曲の「ダンテを読んでーソナタ風幻想曲」はがらっと表情が変わる。リスト自身が表面的な綺麗さを求める姿勢はかなぐり捨て、音が何かを追求してうごめき、うなり、ついには大伽藍を和音の積み重ねで構築していくといった曲である。脇岡のピアノは、リストの極めつきの難曲においても弾き飛ばしは全くなく、リストの装飾音までがいかに音楽的に他の部分と整合性を持っているかを、はじめて僕は身をもって感じることができた。音楽的に大変充実したリサイタルであり、フランク、リストに対する(僕にとっては)新しい見方を提示するプログラムであった。アンコールはリストの「ため息」だった。

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