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2015年6月30日 (火)

松村禎三《沈黙》

silence.jpg松村禎三作曲オペラ《沈黙》を観た(初台、新国立劇場)。

とてもすぐれた舞台であったと思う。原作は、遠藤周作の小説『沈黙』。原作は小説であるから、オペラの中にすべてのエピソードを盛り込むことは最初から不可能である。この作品では松村禎三氏の妻と松村氏が何年もかけてリブレットを作成した。遠藤周作は、リブレットにするにあたっては自由にやってくださいと寛大な態度を示したという。
音楽的には、不協和音、いかにも現代音楽的な響きが炸裂する部分と、祈りの場面、村人の間のやりとりなど相対的に静かで古典的な美しさが聞かれる部分とが、入れ替わり現れるので、バランスが良い。
不協和音、前衛的な響きも、キリシタンへの弾圧や宣教師たちの苦渋にみちた心の内という必然性が感じられるので違和感がない。相対的に古典的な響きの部分も、それが村人の祈りであれば、これまた必然牲があるので、音楽の表情はかなり大胆に変わるのだが、そこにストーリー上の要請が自然に感じられる。
オーケストラはフルオーケストラであり、天上的な音楽のときにはハープやチェンバロなどが効果を発揮する。
舞台上には、大きな十字架が斜めに舞台に突き刺さっており、床には段差のある木が敷き詰められている。ときどきは後方のスクリーンが用いられ、シンプルで力強く、説得力のある演出であったと思う。
独唱者の日本語は聞き取りやすく、また、合唱も音楽的にも、言葉の発声も秀逸であった。オーケストラも力演で、これは大きなホール、フルオーケストラがふさわしい作品だと思った。沈黙という原作が歴史の転換点にしっかりと食い込んでいるし、それにふさわしい大柄の音楽が構築されている。むろん、中間部には、村人のカップルの可憐な愛の物語も埋め込まれているし、その部分の音楽はそれにふさわしいものとなっている。
村人たちの祈りのときには「おうら、ぷろのうびす」(やや記憶が曖昧で正確さを欠いているかもしれません)と書かれていたものが、最後に宣教師が転ぶ、踏み絵を踏む場面では「オーラ・プロノービス」となっているのは効果的だが、これはアヴェ・マリアのいち部分であり、オーラ・プロノービス・ペッカトーリブスうんぬんと続き、罪人であるわれらのために、今も、臨終のときも祈ってくださいと聖母マリアにお願いする祈りの一部である。そのことがわかっていた方が、理解が深まると感じた。

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2015年6月14日 (日)

『死者との邂逅ー西欧文学は《死》をどうとらえたか』

道家英穂著『死者との邂逅ー西欧文学は《死》をどうとらえたか』(作品社、2400円)を読んだ。

美しい本である。美しいのはフラ・アンジェリコの『最後の審判』による装丁ばかりではない。1つのテーマが繰り返し論じられていく様が美しい。ホメロスやウェルギリウスのなかで登場人物が死者と出会う場面、肉体がなくて抱こうとしても手が空回りする(しかもその行為は3回繰り返される)ところが、ダンテやそれ以降の書き手にも受け継がれていく。
こういったトポス(この場合、死者との出会いの場面)が、主題と変奏のように繰り返される様を具体的にたどってみると、まるで美術史で、受胎告知がさまざまな画家によって描かれており、先行作品を踏まえる部分と自分のオリジナリティを加える部分があるといった関係に似ていると思えてくる。
この本で扱われているのは、ホメロス、ウェルギリウス、ダンテ、ボッカッチョ、シェイクスピアの『ハムレット』、ディケンズの『クリスマス・キャロル』、そしてウルフ、ジョイス、プルーストである。強いていえば、英文学中心であるが、著者の視座は英文学にとどまらずむしろヨーロッパ文学のなかで死者との邂逅というトポスの起源がどこにあり、それがどう繰り返され、変化を被っているかということにある。
近代になれば、当然だが、死者や死への観念は変化する。たとえばヴァージニア・ウルフの『灯台へ』ではウルフの父レズリー・スティーヴンと母がモデルになった人物が登場する。ウルフの父は、敬虔な福音主義派の家に生まれた。両親が毎日イエスに話しかけているので、イエスは生きているのだと信じていた。そして聖職者になるのだが、イギリス経験論者の著作を読み、深刻な疑問を持つようになり、職を辞して不可知論者となってしまう。彼は2度結婚するが2度とも妻に先立たれる。著者によれば、不可知論者は死を受け入れることがきわめて困難だと言う。ヴィクトリア朝の後半では、信仰を持った人々は、たとえば妻や子が先に死んでも天国で再会できると信じており、そこに救いがもとめられたが、レズリー・スティーヴンは肉体を離れた霊魂の存在に疑問を抱いているためそのような考えに慰めをもとめることが出来ないのである。
一方で、死や死者との出会いが繰り返し描かれるが、近代に入り、特に第一次大戦後は多くの人がさらに上述の天国での再会という考えも信じられなくなってしまう。そこで最後に取り上げられているプルーストの独特の対処法?がとりあげられる。別離の経験により死への耐性が形成されるのだが、詳しくは本書を読んでいただければ幸いである。
叙述は、平易で読みやすい。何か新しい理論を振りかざしたり、派手な言い回しで人目をひこうというところもなく、作品のテクストによりそってテーマが実に具体的に叙述されていく。パースペクティブが広い論考というのはともすれば、むずかしい理屈をこねまわして、むやみに難解になりがちだが、本書はそういったところは微塵もない。実のある本である。

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2015年6月13日 (土)

脇岡洋平ピアノ・リサイタル

脇岡洋平 ピアノリサイタル 脇岡洋平さんのピアノ・リサイタルを聞いた(上野・東京文化会館小ホール)。(この記事、執筆段階ではアンダーラインを付していないのですが、ネット上では、筆者の意図と関係なくアンダーラインが付いてしまいます。あしからずご了承ください)。

まずヘンデル。脇岡(以下敬称略)のピアノは、てらいのない着実な演奏で、ピアノの響かせ方を無理にチェンバロに近づけようという工夫は見えず、ピアノとして自然に響かせていく。彼のピアノは主旋律部分と内声部、左手(和音であれ、旋律が受け渡される時であれ)が同じ丁寧さで常に弾かれる。これは口で言うのは簡単だが、実際には驚異的な高度な技巧の持ち主でなければ出来ない。音楽の書かれ方が複雑になってくると、旋律をくっきりひいて、伴奏部分はぐしゃっと音のかたまりになってしまうことも起こりがちなわけだが、彼のピアノではそれがヘンデルであれ、フランクであれ、リストであれ、全く生じないのである。
次のワーグナー=リストは後期ロマン派的な曲で、圧倒的に音が多い。ヘンデルとは対照的な曲であり、これがどうつながるのかと不思議な思いがした。が、フランクの曲を聞いて、実に納得がいった。フランクには彼の内部に後期ロマン派的な心情がうずまいているのだが、それがストレートにはあらわされずに、コラールやフーガといったバロック的な様式を通じて表現されるわけである。つまり、ヘンデルとワーグナーを足して、かきまぜて、絞り出したものがフランクの楽曲なのだということが、今回のプログラムでよくわかった。また、脇岡の誠実なピアニズム(派手さを狙うのでなく、旋律の多声を丁寧に表現していく)がよく活かされる。じわっと音楽的な充実につつまれ、いつの間にかこちらも熱くなっている。
後半は、リストの巡礼の年「イタリア」である。7曲からなり、第4,第5,第6曲はペトラルカのソネット47番、104番、123番がタイトルにかかげられている。可憐な趣きのある曲だ。それに対し、終曲の「ダンテを読んでーソナタ風幻想曲」はがらっと表情が変わる。リスト自身が表面的な綺麗さを求める姿勢はかなぐり捨て、音が何かを追求してうごめき、うなり、ついには大伽藍を和音の積み重ねで構築していくといった曲である。脇岡のピアノは、リストの極めつきの難曲においても弾き飛ばしは全くなく、リストの装飾音までがいかに音楽的に他の部分と整合性を持っているかを、はじめて僕は身をもって感じることができた。音楽的に大変充実したリサイタルであり、フランク、リストに対する(僕にとっては)新しい見方を提示するプログラムであった。アンコールはリストの「ため息」だった。

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