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2015年5月25日 (月)

《エジプトのジュリオ・チェーザレ》

ヘンデルのオペラ《エジプトのジュリオ・チェーザレ》を観た(東京初台・新国立劇場、中劇場)。
ダブルキャストで僕が観たのは日曜日。土日とも完売だったとのことで、大変めでたい。それだけ、ヘンデルのオペラ、あるいはバロックオペラを観たいという人が増えているということではないだろうか。
寺神戸亮氏らのラモーのオペラ上演や個々の団体の意欲的なモンテヴェルディ以降のバロックオペラの上演、来日団体の上演、また、ヨーロッパでバロックオペラの上演が盛んになっているという情報、映像が相乗効果をあげて、今年は日本におけるバロックオペラ本格上演の画期的な年となるのではないだろうか。
前述のように、意欲的な団体がいくつもの試みによりオペラファンの間に種をまいてこられた活動が、ようやく実を結びつつあるという意味だ。メインストリーム、あるいはレパートリーの中にバロックオペラも入れるかもしれないという兆しがでてきたのではないだろうか。ぼくがその兆候を感じるのは1つは今年の初頭のNHKのニューイヤーオペラコンサートで、ヘンデルの《リナルド》から4曲が演奏されたことだ。NHKは日本全国で放映されるのだからインパクトは大きい。また、今回、オペラ界の老舗二期会(今回の上演は、東京二期会の二期会ニューウェーブ・オペラ劇場と銘打たれている)が取り上げることの意味は小さくないと思う。場所も新国立劇場であるし。
誤解はないと思うが、相対的にマイナーな劇場で上演されたこれまでの上演の意味が小さいと言いたいのではない。むしろそれこそが先駆者として、賞賛に値する意欲的かつ志の高い試みであったのだ。
今回の上演で感じた課題。オケは素晴らしかった。ニューウェーブ・バロック・オーケストラ・トウキョウって聞いたことないと思っていたら、「本公演を機に、あらたに創設された、ピリオド管弦楽団です。国内外の第一線のピリオド楽器奏者とともに、東京芸術大学、桐朋学園大学などの器楽専攻生により構成されています」とのこと。指揮は鈴木秀美氏でまったく文句なし。リズム感も柔軟だし、通奏低音がズンズンと決めてほしいところはしっかり決めてくれる。しかも歌手に歌いやすいように音量調整も自然かつきわめて巧みであった。
歌手にはばらつきがあった。ヘンデルの曲には、ラルゴ、アダージョといった表情記号がつくようなゆったりとしたテンポで悲しみや嘆きをせつせつと訴える曲もあれば、王や将軍が堂々と自分の世界観を述べる(この作品ではチェーザレの曲、実に名曲で、ホルンの響きが絶大な効果をあげている)曲、かと思えば、激情にかられたテンポの早いアジリタを駆使して駆け抜け聴く者を興奮させる曲もある。
ゆったりした曲をしみじみ歌うのはほとんどの歌手がとても上手で二重唱でも息がぴったりあいさすがであった。問題なのはテンポが早く、装飾音の連続が続く部分である。
こういったところはテンポを緩めると気が抜けてしまうし、口が回らずに音が抜けてしまっても残念な感じがする。それと中劇場にもかかわらず、声が響きわたらない人もいた。調子が悪かったのかもしれないが。
歌手によっては高いレベルの達成も見られた。こういうのは岡目八目で、ロッシーニでもヘンデルでも、細かい音の動きが出来る歌手を知ってしまうと、それに近いものをつい聞く者はもとめてしまう。現代はDVDやCDも普及しているので歌手の方々にはきびしい時代だと思う。しかしながら、生の音の強みは絶対的なものとして存在するので、
その人としてある様式的な美に達していれば、絶対的な速度や回転が他の歌手と比較して劣っているから評価しないということは全くない。これからの若手歌手の成長におおいに期待したい。個人的には、すべてのレパートリーを歌う人ばかりでなく、バロックからベルカントまでしか歌わないという歌手(軽めの声で小回りがきく)が、ひとかたまり出てきてくれればと思う。今回の上演ではなぜかカウンターテナーは登場しなかったが、これについても同様の期待を持っている。
全体としては、ヘンデルの本格的なオペラの本格的な上演を日本で観られて、とても幸せな気持ちでした。これからもヘンデルやヴィヴァルディのオペラが上演されることを強く期待しています。
それからブログを書くものとしてのお願いなのですが、ブログに掲載してもよいような写真を何枚かアップしておいてくださると助かります。練習風景でもいいし、舞台装置がはいった写真でも結構なので、コピーライトの問題をクリアした形で自由に利用できるようにしてください(劇場内では撮影録音は禁じられているので、ご配慮をお願いしたいです)。
舞台は、最初、ヒエログラフ(象形文字)の書かれた神殿というか宮殿のようなものがあり、両袖にドアがあって、そこから人が出入りをして、舞台全体が必要に応じて回るので、どんどん別の部屋にはいっていく感じになる。
エジプトの部下たちは、頭におおきなワニのかぶりものをかぶっている。主要登場人物は耳になにかとがった耳たぶをつけていた。
ワニたちは、登場人物のアリアのときに、音楽にあわせて時にはユーモラスな踊りを踊る。演出は、適度にモダンで、かつ、人物(かなり多い)の関係の整理の仕方もわかりやすくて好感がもてた。

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2015年5月24日 (日)

『マキァヴェッリ』

北田葉子著『マキァヴェッリ』(山川出版社、800円)を読んだ。

一気に読めた。この本は、世界史リブレットの1冊で、本文は79ページ。この長さはなかなか良い、と思った。つまり、ウィキペディアよりは詳しいが、分厚い専門書よりは、はるかに気軽に読める。
気軽に読めると言っても、中身は濃い。マキァヴェッリの著作を、彼と同時代人ではあるが、出自の異なるグイッチャルディーニの著作と比較して、マキァヴェッリの時代における彼の偏差を明らかにしている。
また、彼の実際の職業生活もメディチ家との関わりを中心につぶさに語られる。そのなかで、マキァヴェッリが一方で『君主論』を書きながら、共和政を支持していた理由が明らかになる。彼の理想は古代ローマの共和政なのだ。
マキァヴェッリの思想だけでなく、個人としてのキャラクターを示すエピソードも豊富で、賭け事が好きであったり、宗教心がきわめて薄かったり、同性愛に対してまったく嫌悪感をしめしていないなどといったことがわかる。
ルネサンスというと美術に関心が偏りがちだが、美術にだけ焦点をあてるとその時代にイタリア(半島の諸国)が政治的な危機の時代だったということが見えにくい。本書はマキァヴェッリの思想・生涯を通じてその危機的な状況もすっと理解が深まる仕組みとなっている。
こうした記述がすっきりとした文体で語られるから読みやすいのだが、読後の充実感はそれだけでは説明できない。北田氏が歴史家であることからくる美点だと思うが、彼女はマキァヴェッリの行動や思想を語るときに、絶対に現代の価値観で裁断しない。その時代にはどういった考え方が流通していたのか、その中でマキァヴェッリはどれくらい独自であったのか(どの程度の偏差があったのか)を、丁寧にときほぐしてくれる。
だから、マキァヴェッリや『君主論』が虚空の中にぽつんと浮かびあがるのではなく、厚みをもった人間として、さらには周りの情景もふくめて描かれているという感じになる。
マキァヴェッリは、メディチ家の人々に仕えただけでなく、チェーザレ・ボルジアのもとに使者として派遣されている。登場人物には不足はない。しかし、ちょっとした工夫だと思うが、北田氏はあえて、マキァヴェッリ没後のフィレンツェにも筆をのばしている。それによってマキァヴェッリは遠近感をともなった情景におさまっている印象をうけた。
写真、図版が豊富なのも大いに読解を助ける。メディチ家の人だけをとってもファースト・ネームがロレンツォとかジョヴァンニとか複数いるので、画像があるのはとてもよい。また、註が同じページの上にある(頭注)なのもいちいちページをめくらなくて快適である。

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2015年5月11日 (月)

『オペラ座のお仕事』

三澤洋史著『オペラ座のお仕事ーー世界最高の舞台をつくる』(早川書房、1600円)を読んだ。

内容もきわめて興味深いのだが、非常に文章がうまく、読みやすい本である。テンポの良い文章が続き、一気に読めてしまう。
三澤氏は、現在、新国立劇場の合唱指揮者をつとめている。海外の本格的な歌劇場には専属のオーケストラ、合唱団、バレエ団があるが、新国立劇場は、専属のオーケストラやバレエ団はなく、合唱団だけが専属で存在している。
この本は、三澤氏の音楽的な自伝であり、また、日々の仕事の苦労や楽しみが、小気味よい文でつづられている。意外なことに、三澤氏は、子どもの頃から音楽づけ(たとえば3,4歳からピアノを習った)ということはなく、群馬県の新町で野生児といった趣でのびのびと育った。中学生になってグループサウンズに興味を持ち(彼は1955年生まれ)、ギターを弾き始める。そこでコードに出会い、音楽の仕組み、構造に興味を持つ。
隣家の医師がジャズバンドをやっていて、そこにも引き込まれ、コードへの関心を活かしてビッグ・バンド用の曲を小バンドへと編曲するという作業をする。三澤少年は、大変にクリエイティブに音楽と関わっていくのだ。ジャズをやると同時に、高校に入ると同級生からクラシック音楽の手ほどきをうけ、深い関心を抱くようになる。
なんというか、幼少時から教則本にのっとって音楽の訓練を積んだ人が、しっかしとしたレールの上を走っているとすれば、三澤少年は、ジープのようなクルマで砂利道であれ、林道であれ、あるいは道なき道を自由に駆け巡っていたという感じなのだ。だから、洗練された完成された作品をなぞるということになりがちなお稽古ではなく、彼自身が音楽を立ち上げる、作っていくというプロセスに深く関わっている。
そのたくましい創造性は、音大生になってからも、プロの指揮者になってからも健在である。
後半で面白いのは、指揮者と合唱指揮者との役割分担、そのぶつかり合いを通じての相互理解だ。西欧人と仕事をするときには、以心伝心を期待するのは間違いで、言うべきこと主張すべきことは主張して、互いの考えを理解していくというハードなプロセスがあることがよく判る。
バイロイトやスカラ座での氏の修行ぶりも感嘆に値する。註が、同じページの下についているのも読みやすくて良い。

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《椿姫》

traviata_chirashi.jpg新国立劇場で《椿姫》を観た(東京・初台)。


主人公ヴィオレッタ役のベルナルダ・ボブロは、軽い声で、ビブラートをかけず透明に響く。従来の演奏であれば絶叫調のところでも、サラサラっと歌っていくので、最初は肩すかしを食った気もしたが、こういう演奏もいいと思う。

つまり、近年、ベッリーニやドニゼッティの演奏で生じているように、過度にロマンティックにやらない、むしろ様式性を浮かび上がらせる演奏スタイルである。

イヴ・アベルの指揮は、特に第一幕ではスピードを重視した演奏で、こんなにテンポの早いパーティ場面の演奏は珍しいが、その軽快さ(オケはしっかり厚みがあるのだが)とボブロの声質はあっている。

ヴェルディの《椿姫》という作品自体が、彼の《リゴレット》や《イル・トロヴァトーレ》と並んでイタリアオペラの新局面を切り開いた面と、いわゆるベルカントオペラの最終局面(たとえば第一幕のヴィオレッタの華やかなフィオリトゥーラ(装飾音))という2面性があり、従来の演奏はロマン主義的な濃密な感情表現に重きを置いているものが多かった。

しかし、ベルカント的な要素を積極的に出す演奏も十分に存在意義があると思う。むしろ彼女の問題点はイタリア語の発音が不鮮明になるところがままあることだろう。

ただ、アルフレード(アントニオ・ポーリ)やジェルモン(アルフレード・ダザ)の演奏スタイルが、ロマン主義的演奏スタイルからベルカント的なスタイルにシフトしているとは言えず、おのおのが自分の声質にあわせて歌っているという感じであった。

合唱団もあのテンポについていって、立派に歌っているのは見事。あのテンポだとだれるところがなくて聴いている者としては、具合がよい。

演出は、装置は簡素で服装はオーソドックス。違和感なく、モダンな舞台であった。

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2015年5月 3日 (日)

《幸せの椅子》

イタリア映画祭が始まった(4月29日〜5月5日)。
マッツァクラーティ監督の遺作《幸せの椅子》を観た(有楽町、朝日ホール)。
作品自体、十分楽しめるものであり、彼のメッセージは明快で、寓意性の強いものと受けとめた。
ここでは、マッツァクラーティが仕掛けたオペラがらみの遊びについて記しておきたい。主人公は3人いて、そのうちの1人はネールアーティスト(イザベッラ・ラゴネーゼ、来日し舞台挨拶と質疑応答があった)で、女性の囚人のネールを塗っている際に、彼女が財宝を自宅の椅子に隠したと聞くが、その囚人は亡くなる。その女性の囚人を演じているのは往年の名ソプラノ、カティア・リッチャレッリである。そして囚人の名前はノルマ(周知のごとく、ベッリーニの傑作と同じ名前だ)。
そればかりではない。財宝をもとめて、競売されてしまい行方がバラバラになった椅子たちを3人が追いかけることになるのだが、そのうちの一人は神父。なんだかあやしげな神父(バッティストンが演じている)で、映画の後半で彼はヴィデオポーカーで借金をこしらえていたことが明らかにされるが、どこか憎めない。そう、マッツァクラーティの映画に出てくる人物は、決して「立派」ではないのだ。むしろ人間的「弱さ」にあふれている。《聖人の舌》の主人公の中年男(ヴェンティヴォリオが演じていた)もそうだった。その神父が、椅子のありかを知るために頼るのが降霊術師の女性なのだ。その降霊術師の名前がアルミーダ。ロッシーニのオペラ《アルミーダ》の女主人公である。ロッシーニのオペラでは、彼女は魔女で、十字軍の騎士を色仕掛けで誘惑する。
他にも気づかなかった仕掛け(遊び)があるのかもしれない。
マッツァクラーティの演出するオペラを観てみたかった、と思わずにはいられないのだった。

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