ヴォルフ=フェラーリ《チェネレントラ(シンデレラ)》
エルマンノ・ヴォルフ=フェッラーリ作曲のオペラ《チェネレントラ(シンデレラ)》を観た(新国立劇場、中劇場)。
日本初演。世界的にも上演は珍しいものとみえて、海賊版もふくめて録音、録画が見当たらないし、You Tube などを検索しても出てこない。ヴォルフ=フェッラーりの原語は、Wolf-Ferrari なので、フェッラーリと表記するが、有名なスポーツカーのフェラーリと同じなのでヴォルフ=フェラーリの表記もありうるだろう。現に、日本で唯一のこの作曲家についての単著『ヴォルフ=フェラーリ 生涯と作品』(水曜社)を書いた永竹由幸氏も、同じ理由をあげてフェラーリの表記をあえてとっている。永竹氏が亡くなっって3年。この上演をご覧いただけないのは残念というほかない。
さて、氏の著書によると(以下、すべて情報源は永竹氏の著書による)、そもそもヴォルフ=フェラーリという名字はペンネームだったのである。父の姓がヴォルフなので、ヴォルフなのだが、はじめて楽譜を出版する際にそれでは目立たないと思い、母方の姓を加えた。後にはそれが彼の正式の姓となった。父はドイツ出身の模写画家で、ヴェネツィアに名画を模写に来ていて、ヴェネツィア人の母と知り合い結婚したのである。息子も模写画家にしようと思って、美術学校にいれられたのだが、幼少の頃よりの音楽好き(父方の祖母が相当のピアノ弾きだった)で、とうとう音楽家になる決意をする。
もっとも父親も画家にしようと思いながら、エルマンノが12歳の時にロッシーニの《セビリアの理髪師》を見せただけでなく、わざわざバイロイトまで行ってワーグナーの《トリスタンとイゾルデ》、《マイスタージンガー》、《パルシファル》をみせて、息子をワーグナーの虜にしてしまったのだ。
《チェネレントラ》と言えば、ロッシーニ作曲のものが有名だが、ヴォルフ=フェッラーリも、ミラノのフィロドラマティコで繰り返し観ていた。観ているうちに、ストーリーをよりペローの原作に近いものにして、作ってみようと考えたらしい。フンパーディンクの《ヘンゼルとグレーテル》が1897年にミラノでイタリア語でイタリア初演され評判をとったのを彼も観ており、童話を原作にしたオペラの可能性に魅力を感じたのだろう。フンパーディンクは直接的にワーグナーの弟子筋にあたる人だったが、この《チェネレントラ》もワーグナーの影響は顕著で、オーケストラが豊穣で、特に金管が分厚い。
この作品が初演されたのは1900年2月22日。言うまでもなく、1900年は19世紀最後の年であるが、ペローを19世紀の心理小説的に書き直したリブレットとなっている。王子はルビーノ(宝石のルビー)という名前なのだが、ふさぎの虫にとりつかれていてそのためパッリド(青白い)王子と呼ばれている。そのふさぎの虫を追い払うために父王と母王妃が考えて舞踏会を催すという仕組みになっているのだ。おとぎ話と小説的なものの折衷で面白いと言えば面白いし、中途半端といえば中途半端である。
1890年代には、マスカーニの《カヴァレリア・ルスティカーナ》やレオンカヴァッロの《道化師》、プッチーニの《ラ・ボエーム》が初演されているのだが、《チェネレントラ》にはそれほど耳に親しみやすいメロディがない。後に、オペラ《マドンナの宝石》(間奏曲はだれでもどこかで聞いているはず)を書いた人なのだから本来は耳になじむメロディもかける人なのだろうが、おそらくはドイツオペラ、特にワーグナーの影響が強すぎたのではないだろうか。ヴェネツィアの初演は失敗におわり、2年後のブレーメンでの成功は、改訂だけのせいではなかったかもしれない。つまり観客の感性、求めるものの相違もあったかもしれないと思う。
東京オペラ・プロデュースがこういう珍しいものを上演してくれるありがたさはいくら強調しても足りないほどである。演出(太田麻衣子)も、素晴らしかった。服装はオーソドックスで、歌がなくオケだけの時間をあきさせぬ工夫が随所にみられた。
| 固定リンク
コメント