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2015年1月28日 (水)

アルベルト・ゼッダ 声楽公開レッスン

アルベルト・ゼッダの声楽公開レッスンを聴いた(新百合ヶ丘、昭和音楽大学ユリホール)。

7組の歌手(昭和音大の大学院生もいれば、日本オペラ振興会のオペラ歌手育成部の研究生もいれば、現役の藤原歌劇団の団員もいる)が歌い、ゼッダがコメントをつけ、それを富永直人氏が通訳するという形で進行していった。
7組のうち、6組はロッシーニのデュエットやアリア、または歌曲で、1組がドニゼッティの《愛の妙薬》からだった。
マエストロ・ゼッダの指摘は明快でかつ説得力に富んでいた。
いくつかのポイントを記しておこう。
1つは、劇として演じろということ。歌手であると同時に役者であることを意識せよと何度も言っていた。それは同時に、自分が歌っているのがどういう場面であるか、あるいは自分の役がどういう役柄、キャラクターなのかをしっかり把握せよということでもある。また、レチタティーヴォのところでは、何度も歌いすぎるな、もっと話すように、ということも言っていた。また、歌のなかでも、いつも朗々と歌うのではなくて、皮肉なところでは語り口調も利用して、皮肉な調子で歌うほうがよいし、曲によっては前半はカンツォーネのように、軽快に、シャンソンのように歌い、後半はアリアのように朗々と歌うのがよい、つまり、曲調によって歌い方に変化をつけよ、との指摘が何度もあった。
出場した歌手たちはみな真面目に練習してきたのだと思うが、真面目すぎて、軽快な部分を軽快に、皮肉な部分を皮肉な調子で歌うという歌の表情の変化に欠けるうらみがあるとのことで、まったく納得が言った。
ドニゼッティの《愛の妙薬》でも、アディーナは自分に自信があり、村一番のお金持ちで美人でということをふまえ、自分を花から花へ移ろう蝶に例える場面では、ネモリーノに対して、あんたなんか目じゃないわ、と言った調子を出す必要がある。それに対してネモリーノは貧しく(あとで叔父の遺産が入ってきて状況は変わるのだが)、読み書きもできないが一途な愛がある。そういう人物像をしっかり踏まえて、皮肉や、優しさやを表現せよとのことだった。
上記のことと密接に関連するが、歌詞の言葉と歌の連関の指摘もあった。たとえば、ぼくは誓う(io giuro)であれば、この誓うというところが強調されなければならない。一本調子で全部強く歌うのではなく、ここという言葉のところを強調するのである。
また、アジリタ(細かい音を素早く歌うパッセージ)に関しては、アジリタは完璧でなければいけない、細かい音は全部きちんと音を出さなければいけないと強調していた。実際の歌手はかなりきちんと歌っていたけれど、ゼッダの主張をわかりやすくするために説明すれば、たとえばソラシドというフレーズを、はしょればソードとごまかすことができる(くどいようだが、実際の演奏はそんなひどい音抜きをしたわけではない)。マエストロ・ゼッダはアジリタは80%ではだめで、100%全部の音をきちんと出さなければならないと主張していた。
ロッシーニは単に感情移入だけでなく、様式美の強い曲を書く作曲家である。また、感情もヴェルディやプッチーニとくらべて、軽やかで、皮肉や、機知に富んでいる。その皮肉や機知を、歌やレチタティーヴォで表現していくところが日本人歌手にとっては、一つの難関であるということがわかった一夜であった。と同時に、7組の歌手たちの声も発音もしかりしており、その点はマエストロも高く評価していたことを付け加えておこう。高いレベルにあるということを認めた上で、さらに磨きをかけるには、こういう点が必要だというマエストロのアドバイスなのである。しかし、こういう公開レッスンを聞くと、声楽上のポイントや人物像のつくりあげかたの一端がわかっておおいに勉強になった。

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