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2014年12月13日 (土)

ロベルト・ピウミーニ『逃げてゆく水平線』

ロベルト・ピウミーニ著長野徹訳『逃げてゆく水平線』(東宣出版)を読んだ。

25の短篇集である。いわばショート・ショートで、1つ1つは独立した話で、オチもついている。寓意的な物語が多い。
たとえば、「沈黙大会」では、単に沈黙の長さを競うのではない。どんな沈黙にも特別な音が混じっているというのだ。アブルッツォの羊飼いの沈黙に耳を傾ければ、羊の鳴き声や風の音が聞こえてくる、といった具合だ。超高感度の電子装置で、沈黙の中に潜むかすかな物音を検知するのだ。チベット僧侶の沈黙の中には、アーモンドの芽がほころぶときに立てる、かすかで繊細な音が検知され、彼は敗退する。このように、寓話的な枠組みの中に、細部には詩的な叙情も香り立つ。
「メガネをかけた足」では、メガネをかけるとかっこ悪いと信じている男がいて、あちこちにぶつかるものだから、足(擬人化されている)が腹をたて、痛くてたまらんからメガネを買ってくれという。顔ではなくて、足にメガネをかけることになるのだが、右足と左足がまったく性格が異なる。右足は活動的で外が好きなのだが、左足は、静かで、家で本を読んだり、図鑑をながめたりしているのが好きなのである。こうして右足と左足の齟齬に悩む男が、色弱の女性と出会う。そこで何が起こるかがユーモラスに語られる。
凝った詩的な言い回し、比喩と、寓意的なストーリー展開がうまく組み合わされた短篇のつらなりで、とても面白くよめる。読者の年齢を選ばない童話集といえるかもしれない。

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2014年12月11日 (木)

《メリー・ウィドウ》

レハール作曲の《メリー・ウィドウ》をハイライトで観た(西国分寺、いずみホール)。

当ブログ、前項目の《あまんじゃくとうりこひめ》と同日の後半演目である。いずみホールは西国分寺の駅から徒歩2分という感じで駅前のロータリーに面している。とんがり帽子のような屋根が目印だが、ホールも両側が傾斜しており、客席数の割には天井が高い。客席は階段状に傾斜しているので、前の席のお客の頭が気になることもない。内部も左右の壁面には三角錐のへこみとでっぱりが交互にあったりして、建築としても幾何学的な美しさと、響きの美しさを両立させたホールで来た甲斐があった。
さて、レハールは、ヨーロッパの架空の某小国で、金持ちと結婚してあっという間に未亡人になったハンナが主人公(陽気な未亡人というのがタイトルの意味だ)。彼女は今パリにいるのだが、フランス人と結婚すると財産がフランスに移ってしまうので、公使のツェータはなんとかハンナが某国の人と結婚するように画策する。
そこでツェータ(加賀清孝、敬称略、以下同様)が目をつけるのが、書記官のダニロ(佐藤雄太)。ダニロは、ハンナ(前田史音)と昔、恋仲であったのだが、家柄の違いを理由に結婚できなかった。そういう経緯もあって、ダニロは、ハンナがお金持ちになったからといって求婚することにはためらいがある。
一方、パリの色男としてカミーユ(古橋郷平)がいる。彼は、ツェータの夫人ヴァランシェンヌ(二見麻衣子)を口説く一方、ハンナにも気があるそぶりを見せる。
先日見た《チャールダーシュの女王》でもそうだが、オペラッタには元カレ、元カノが出てくることが多い。1つには、ウィーンという古都で、実際に、身分違いで結婚できないというカップルが多くいて、それが何十年か経過しても相手への思いが潜在していてということがあったのだろうし、オペレッタはどこか予定調和なストーリーが多いので、今ある現実を突き破る破壊力を持った恋愛よりも、むしろノスタルジックな色合いを濃くもった関係の方がオペレッタにより親和性があるのだろう。
この上演では、カミーユ役の古橋(《チャールダーシュ》にも出演していた)にたいして、ニェーグシュ(今井学)が背が高くて小顔で。。。。と絡むところがあったが、明らかに、古橋に当て書きして、もとの台本を変えている。むろん、それが楽しいので、おおいに結構なのだ。さらには大胆に、ツェータの加賀は、自作の紹介までしていたが、これも楽しかった。会場の人にも歌わせたのである。こういったアドリブ的な演出、台本の変更でよりエンターテイメント性を高めるのがオペレッタの特権ともいえよう。
オペラの場合には、作品台本(リブレット)を変更することにはかなり抵抗がある。しかし実は、歴史的にみれば、ロッシーニやモーツァルトでも、上演の際には特定の歌手に当て書きしていたのであるし、上演する会場に応じて、結末を書き換えていたりしたのだ。

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2014年12月10日 (水)

林光《あまんじゃくとうりこひめ》

林光作曲、若林一郎台本のオペラ《あまんじゃくとうりこひめ》を観た(西国分寺、いずみホール)。
前半が《あまんじゃくとうりこひめ》で、後半は、レハール作曲のオペレッタ《メリー・ウィドウ》の抜粋。
林光のほうは、伴奏が、ピアノ(荻原萌子、宮沢奈々)とフルート(武田樹)とパーカッション(鈴木彩)。シンプルな編成だが、作曲家の創意工夫もあって、音楽は変化に富んでいる。うりこひめに関してはライトモティーフのように、繰り返し同じメロディが出てくる。
民話とは異なり、うりこひめは、あまんじゃくにさらわれてしまうことはない。むしろ、殿様がうりこひめを狙っていて。あまんじゃくがその妨害をするというのがメインストーリーになっている。
あまんじゃくは、このオペラではむしろ元気がよく、人のいうことの反対をしようとはするが、可愛げのある奴、元気のよい奴として描かれている。
《あまんじゃくとうりこひめ》の配役は、あまんじゃくが大上幸子(敬称略、以下同様)、衣装も歌も元気がよかった。うりこひめは森朋子。可憐な役。じっさとばっさは、加賀清孝と竹村晴子。加賀は、このグループのリーダーで作曲家でもある。殿様が加藤史幸、家来が今井学。加藤と今井は殿様と家来なのだが、コミカルなしぐさ、コミカルなやりとりが笑える。後半の《メリー・ウィドウ》でもそうだったが、日本人歌手の演技はうまくなっていてお芝居として楽しめる。
今回の《メリー・ウィドウ》は日本語の歌詞で歌われ、台詞の部分も日本語であったが、翻訳台本の場合、語学的に正確であることに厳密であるよりも、舞台が楽しめるものになるかが重要で、今日のメリー・ウィドウはそうなっており、大いに楽しめたし、笑えるシーンがいくつもあった。
演出家は両作とも伊藤隆浩。《メリー・ウィドウ》のほうは、伴奏はピアノのみである。
今日のオペラは前半がもともと日本語が原作のオペラで、後半は原作はドイツ語だが日本語に翻訳して上演しており、どちらも日本語での上演だ。原語で日本語字幕もその原語がわかるときには味わい深いものもあるが、日本語で上演されると、字幕なしで気楽に聞ける。むろん、歌手の発声、発音が明晰であることが必要となるが、字幕を追わなくてもよいし、冗談などはストレートにわかる良さがある。

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2014年12月 9日 (火)

《チャールダーシュの女王》

エメリッヒ・カールマンのオペレッタ《チャールダッシュの女王》を観た(日生劇場)。
二期会の公演である。最近は、コピーライトが厳格化したせいなのか、ネット上から公演にかかわる写真をブログ上に引用しにくい。劇場では、写真撮影、録音を厳しく禁じているのだから、せめてネット上には引用自由な写真をあげてくれるとありがたいのであるが。。。
オペレッタを聞くのは本当に久しぶりで、《チャールダッシュ》を観たのが、フォルクスオーパーの来日公演であったか、ハンガリー国立歌劇場の来日公演であったかも判然としない。そういう筆者なので、以下はオペラばかり観ている人はオペレッタのことはまったく判ってないなあ(無論、オペラ好きでかつオペレッタ好きの方も大勢いるわけであると思うが)と思って読んでいただければ幸いです。
この公演を観て、作品がうまく出来ているなあ、という感想と、オペレッタを演じる歌手は、歌って踊って、コミカルな演技ができなくてはならなくて大変だなあと思った。最近のオペラの演出には、そもそも演出家がオペレッタ出身という人もいて、歌うだけでなく、踊ったり動き回る場面を作る人が増えてきているような印象を持っている(詳しく統計をとったりしたわけではなく、あくまで印象です)。
指揮は三ツ橋敬子。この人の指揮でオペラやオペレッタを聞くのは初めてであるが、とてもリズムがシャープで、かつテンポをあげていくところも自然でぎくしゃくとせず好感が持てた。僕にとってより馴染みのある曲で聞いてみたいとおおいに思った。オーケストラは東京交響楽団。
最終日だったので、配役はシルヴァが醍醐園佳、エドウィンが古橋郷平、シュタージが青木エマ、ボニが高田正人。
最近の歌手は、演技やセリフでコミカルなくすぐり、笑いをとるのもとても上手である。そのため、オペレッタをお芝居としても大いに楽しめた。
カールマンの音楽は、ウィーン風のところあり、ハンガリー風のところありだが、予定調和な感じの音楽で、その心地よさと、限界を同時に味わうこととなった。調性のある音楽という点では同じなのだが、ロマン派の時代の第一線のオペラはストーリーの点でも音楽の点でも、観客はどこにつれていかれるかわからないというわくわくした感じを持つ(ただし、レパートリーとなって繰り返し演奏されれば、その感じは薄れる、摩耗してしまうわけだが)。それに対して、カールマンの音楽は、そういったわくわく感やどこに連れていかれるのかわからないといった感じはない。
上質な娯楽なのだという割り切りがあって成り立つのがオペレッタなのかと思う。
プログラムに演出家の田尾下哲氏が、どうして日本語上演にしたのか、あるいは、この作品に対する思い、解釈を述べているのが興味深かった。日本ではまだまだリブレットに対する言説は貧弱である。田尾下氏の意見に、筆者はすべて賛成というわけではないが、そんなことより、様々な立場の人が、リブレットに関する様々な意見を表明することが大いに望ましいと思うし、そういう状況の到来を願っている。

Emmerich Ká~プリマ・ドンナとオーストリア貴族の恋物語~ 女王

華やかに、エレガントに、心の底から楽しめる!

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