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2014年9月14日 (日)

《イドメネオ》

モーツァルトのオペラ《イドメネオ》を観た(東京初台、新国立劇場)。

モーツァルトが25歳の時に、ミュンヘンの宮廷から委嘱をうけて作曲したもので、リブレットは、ザルツブルクの司祭ジャンバティスタ・ヴァレスコの作だが、モーツァルトは作曲の途中で、故郷の父に手紙を書いて、父を通じて、ヴァレスコに何度も書き直しを頼んでいる。
ミュンヘンで上演したのちも、モーツァルトはこの作品に愛着および自信があったとみえてウィーンに移住してからも再演を試みている。歌手の要望によって、あるいは改作のために手を加えているので、ミュンヘン版でもウィーン版でも細部にはさまざまなヴァリエーションがあるようだ。
イドメネオの最も基本的な性格はオペラ・セリアだということだ。イドメネオはトロイ戦争からの帰り、久しぶりの帰宅の途中激しい嵐にあい、海神ネットゥーノに上陸後、最初にあった人間を生贄にするので助けてくれと言う。しかし最初に出会うのはイダマンテという自分の息子なのだ。
しかもイダマンテは王の選んだ女性(エレットラ)ではなく、トロイの囚われの王女イリアに恋している。イダマンテを犠牲にしたくないイドメネオは小細工するが、海神にはバレて怒りをかう。大祭司や民衆に詰め寄られて、イダマンテを犠牲にする覚悟を決めたところで、神からの許しが出る、というのがあらすじである。
イドメネオは為政者としての苦悩、親としての悩みを抱えている。イダマンテも、10年ぶりにあったかと思うと父親に冷たくされるし、恋するイリアは敵方の王女、エレットラからは激しく迫られるが、彼女には気がない。
こういう話は、オペラ・セリアの時代であれば、おかしくないのだが、19世紀半ば以降ロマン主義がヨーロッパを席巻すると、飽きたりないものと感じられてくる。
ロマン主義をつきつめて、つきぬけると、こういうものもまた新鮮に感じられるであろう。いや、ロマン主義(的なるものは)はやっかいなことに、今でも、われわれが芸術を考える際の基準となってしまいがちなのだ。
上述のストーリーからもうかがえようが、モーツァルトはオペラ・ブッファとオペラ・セリアでは明らかに音楽をかき分けている。ファッションに、カジュアルとフォーマルがあるように、音楽がフォーマルなのである。カジュアルの身近で肩の凝らないよさがあるように、フォーマルには居ずまいを正したバリッとした格好よさがある。苦悩といっても単なる個人の苦悩ではなく、国(国民)全体と、私的な愛情が矛盾してしまうという懊悩。しいて現代のわれわれに置き換えれば、仕事(個人を越えた世界)と家庭(個人的世界)の矛盾が近いかもしれないが、明らかに矮小化されてしまう。むしろ、織田信長や太閤秀吉の時代劇を観るように、天下と個人くらいの比率で味わうのが筋であろう。無論、何をどう引き寄せて解釈するのも個人の自由なのだが。
最近増えている読みかえ演出は、そういう引き寄せプロセスを演出家が代わりにやってくれているのかと思う。オペラセリアをオペラセリアとして味わいたい人には、余計なお世話となるかもしれないし、ごちゃごちゃ難しいこと言わんと身近に感じたいわあという人にはおおいにヘルプになるであろう。
準メルクルの指揮、東京交響楽団はピリオド奏法(バロックよりの響き)で早めのテンポは、時に前のめりになりながらも快適であった。歌手もそれぞれ砂地を歩きまわったり転げ回ったりしながら力演。ミキエレットの演出も、イリアのお腹が大きかったのはそういうことであったか、という驚きがありと納得のいくものであった。
今さらではあるが、モーツァルトのオペラは、ダ・ポンテ3部作以外もそれぞれ独自の魅力があると痛感した。

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2014年9月 7日 (日)

《コシ・ファン・トゥッテ》

モーツァルト作曲ダ・ポンテ脚本(リブレット)の《コシ・ファン・トゥッテ》を観た(桜新町、スタディオ・アマデウス)。

これは、オペラアカデミーという若手歌手の研修所の研修修了公演である。指揮は秋山和慶(敬称略、以下同様です)。伴奏は、ピアノ2台で、コレペティトール(ピアニスト)が3人。高瀬さおり、高橋健介、巻島佐絵子。久しぶりに、ピアノ伴奏でオペラを聞いた。
上演は、一言で言えば、音楽的にも演劇的にも非常に充実したものだった。《コシ・ファン・トゥッテ》というオペラはご存知のように、2組の婚約したカップルと、ドン・アルフォンソとデスピーナが出てくる。婚約者は女性のフィオルディリージとドラベッラは姉妹である。男はフェッランド(テノール)とグリエルモ(バリトン)が自分の婚約者の貞節は固いと自慢しているところ、ドン・アルフォンソと口論になり賭けをする。男2人はアルメニア人に変装して自分の友人の婚約者を口説くのだが、最初はドラベッラが陥落し、抵抗をしめすもののフィオルディリージも口説き落とされてしまう、という話である。
そういうあらすじ上の理由もあって、この曲は重唱がとても多い。ストーリーそのものが姉でも妹でもどちらでも同じ。あるいは、逆に男もどっちでも同じという話なので、姉と妹は声域的に言えばソプラノとメゾソプラノだが、同じメロディを交互に歌ったり、同時に歌ったり、同時に歌ってハモったりする。二重唱、三重唱は丁寧に練られたものと、たとえばスター歌手が数日前にやってきてやる場合では、重唱のキメの細かさが異なる。今回の上演は1年間にわたる研修の修了公演であり、息がぴったりあっているし、姉妹で同時に歌うときも、たとえば片方の歌手だけが余計なビブラートがつくなどということがなくて、本当に気持ちのいいアンサンブルであった。
さらには、アンサンブル(重唱)だけでなく、レチタティーヴォもよかった。なんとなくイタリア語の台詞を言っているのではなく、音楽的な表情に過不足がない。たしえばフイオルディリージの相島百子のレチタティーヴォはフレーズの切り方、発音もおどろくほどきれいで、かつ、明晰だった。高音部は文句ない。あと1音か2音低音部がもう少し力強く響けばというのはないものねだりかもしれない。デスピーナの別府美沙子も、歌うところとレチタティーヴォの中間のような表情の使い方が巧みで、それはオペラ・ブッフォ的な役柄にとっては欠かせない上手さだと思った。彼女の場合は、それに顔の表情やジェスチャーへのコミカルな味付けが良い。
 他の歌手もそうなのだが、練られたアンサンブルだなあと思うのは、自分が歌っているときだけでなく、たとえば男たちが歌っている内容に、姉妹が当惑している(本人たちは歌っていない)ところでも、実にぴったりとくる表情を浮かべているのだ。
 オペラの音楽的な性質と演劇的な性質は相互に絡み合っていて、単純に切り離すことはできないが、今日の上演は、場面、場面のアンサンブル、あるいは場面の受け渡しが、音楽的にも演劇的にも充実したものだったのだ。
 演劇的に言えば、舞台装置や衣装がミニマルなものであった。舞台装置は、大きなサイコロのような黒い立方体が3つあって、それを時々重ねたりバラしたりして時にはイスとして使うといった具合。衣装は、女性はブラウスと長いスカート。デスピーナは、ストーリーの中で、医者や公証人に変装するのでカツラや眼鏡を変装道具として使用していたが。あとは、ドラベッラのロケット(ネックレス)をグリエルモが取り上げてしまう場面があるが、ロケットを持ったフリをしているだけなのだ。デスピーナが医者に化けて使う解毒作用のある?特別な磁石も持っているフリをする。
これを見て気がついたが、こういうエア演技は、歌手の演技力を要求するということだ。剣をふりまわす場面でも剣はないから、剣を抜いていると判る仕草が求められる。
歌手たちは歌唱およびレチタティーヴォを練り上げているだけでなく、そういったジェスチャー、表情もしっかりとした演技になっていた。
この上演が研修所の研修修了公演であるためだと思うが、1つの大きな特徴として、1つの役を2人で演じているということがあった。1人2役ではない。フェッランドという役を演じているのが清水徹太郎(澄んだ高音)と渡辺大という2人で交互にでてくるのだ。グリエルモはバリトンの大山大輔1人でドン・アルフォンソは町英和1人で演じたが、両者ともイタリア語の口跡が良く、歌いまわしも巧みで堂々たるものだった。
フィオルディリージも2人、デスピーナも2人。ドラベッラは吉田貞美が1人で演じた。最初は緊張しているように見えたが、どんどん調子をあげて力強い声を聞かせていた。
ぼくはマエストロ秋山和慶のそばに座っていたので、マエストロの息遣いがよくわかった。やはり、オケがトゥッティ(全奏)になるようなところは息を吸い込んで大きく手を振り下ろしてコレペティトールに伝えているし、テンポが切り替わって早くなっていくところなどでは、足を踏み込む音が聞こえた。これは雑音でうるさいと言いたいのではない。反対に、ああやっぱりここで力が入るということが納得がいき、マエストロに音楽の勘所を教えてもらっている感じで心地良い。
 息づかいやリズムが重要なのは歌手だけではなく、その大元のテンポ、リズムをマエストロの息遣いが導いているわけである。
実にレベルの高い、充実した演奏だった。
モーツァルトとダ・ポンテの組み合わせが見事な作品を作っているのもあらためて思う。今日の演奏では、ぼくがCDで聴きなじんでいるベームなどの演奏では省略されているアリアやアリアの一部分も演奏されていてフルヴァージョンだったのではないかと思う。恋愛の素晴らしさをたたえる歌がちりばめられながら、実は相手はだれでもいい、入れ替え可能なのではないか、という内容のストーリーは面白おかしさとともに、底知れぬ深さ、不気味さをも含んでいる。極端に言えば、人間のアイデンティティは、人が思っているほど、個別ではなく、入れ替え可能なのではないか、人は置き換え可能なのではないかという命題がふと浮かび上がる。モーツァルトとダ・ポンテのオペラは、三作とも、面白おかしさとそういった奥深さ、不気味さが共存している。二人の共作過程は残念ながらダ・ポンテの回想録には数行しか書かれていないのだが、こういった独自性を追求したのにはモーツァルトの意向も大きく関与していたのではないかとぼくは推測している。

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