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2014年8月16日 (土)

《セビリアの理髪師》

Grandi voci (maschili) per Il barbiere di Siviglia (Foto Amati Bacciardi)ロッシーニ作曲の《セビリアの理髪師》を観た(ペーザロ、ロッシーニ劇場)。


ロッシーニの作品中もっとも有名で上演回数も多いオペラだが、今回の上演は《パルミーラのアウレリアーノ》上演に合わせたものだろう。というのも、この2作品は序曲が同じだし、ロジーナのアリアなどもほとんどメロディの同じものが《パルミーラのアウレリアーノ》に存在するからだ。

作られたのは《パルミーラのアウレリアーノ》が先なので、オペラセリアに使ったメロディーや楽曲をオペラブッファで使い回したことになるのだが、その説明を知ったうえで聞いても不思議なほど違和感がない。

この上演では Accademia delle Belle Arti (日本でいう高専くらいに相当するのだろうか。ただし美術系の学校である)の生徒たちが演出や装置を作った。装置は本当に最小限なのだが、いろいろな工夫があって面白い。たとえば、登場人物はたいてい平土間の客が出入りするところからやってくる。フィガロの「俺は町の何でも屋」のアリアは、フィガロが客席にすわっていて歌い始めるので皆びっくりして、笑い声もあがっていた。この上演ではフィガロやリンドーロ(アルマヴィーヴァ)は背広なので、客席にすわっていても気がつかないのだ。客席で歌いはじめて、歩いて舞台にあがり続きを歌う。そのアリアのなかでフィガロ、フィガロと連呼する部分になると、桟敷席の羽目板にFigaro という文字がレーザー光線で照射され、それが次々に増殖していく。

平土間だけでなく、桟敷席の羽目板も舞台空間の一部なのだ。フィガロがカネをもらうと元気が出るという歌のときも、舞台上で彼は怪しげな人物に注射をされる。すると舞台の上方に中くらいのスクリーンが3つあって、なんだか麻薬の効果を暗示するような図形の動きがしめされ、やがて黄色の不定形の染みが桟敷席の羽目板のあちこちに照射され増殖する。フィガロの金銭欲による興奮はフィガロだけのものではないというわけだ。

音楽教師のドン・バジリオは神父の姿で出て来る。金で買収されるなんとかの沙汰も金次第の坊さんというわけだ。このあたりも皮肉にとんだしぐさのやりとりがバルトロとの間にあって笑わせる。ドン・バジリオを演じ歌うのはエスポジト(昨年はアルジェのイタリア女で歌って踊るムスタファ役を怪演した)で、バルトロはボルドーニャ。彼もいくらでも早口の場面で口がまわる。こうしたこれ以上ない配役が脇をかためた上で、フィガロは若手のサンペ(発音は本人に確認しました、サンペに訂正します)。フランス人だと思われる。声も豊かで演技も余裕たっぷりで観ていて楽しい。
ロジーナはアマル。彼女も綺麗にアジリタが転がり、お茶目でしたたかという表情をうまく出していた。指揮はサグリパンティでイタリアの若手。きびきびした指揮だが、曲によってはものすごくゆっくりはじめてどんどん加速していくという組み立てにしていた。そんな場合でも歌手との息があっていた。

観客もなじみの曲ということもあるが、この決してお金をたっぷりかけたわけではないが、創意工夫に富んだ演出、いきのいい演奏を堪能したようだった。


 

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