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2014年8月19日 (火)

《パルミーラのアウレリアーノ》(演奏評)

今回の上演の配役は、アウレリアーノがマイケル・スピアーズ(テノール)。彼はテノールだが、低いほうもバリトン並みにでる特殊な声で、音域が非常に広く、しかも一瞬でオクターブ以上離れた音にぽーんと飛ぶことを楽々こなしているように聞こえる。なかなか立派な皇帝だった。

パルミーラの女王ゼノービアはジェシカ・プラット(ソプラノ)。彼女は、非常に舞台映えがする人で、以前にリサイタルで素顔をみると普通のオーストラリア人女性に見えるのだが、2年前の《バビロニアのチーロ》や今回のゼノービアのように、舞台でしっかりとメイクをして、時代劇の衣装をまとうとまったく別人で威厳もあるし、身のこなしも堂々としていて、顔の表情も気品すら感じる美しさをたたえている。歌唱も立派だが、オペラというものが劇でもある以上、身体的な外見も重要だと思う。ただし誤解しては困るのだが、筆者は昨今ともすればDVDに収録されるオペラで採用されがちな細身の女性歌手がよいと言っているのでは決してない。ジェシカ・プラットは決して細身でもやせてもいない。堂々たる身体から力のある声を発している。やはり、たっぷりとドレープのついた衣装とか《チーロ》のときのように白黒でバビロニアの衣装といった現代とは別世界の衣装をつけると、身体の大きさ、豊かさは舞台映えするということを強く感じた。
主要歌手で一番弱かったのはアルサーチェを歌ったレーナ・ベルキーナである。彼女はやや小柄で(というかスピアーズとプラットが大きいのかもしれないが)、そのためアルサーチェとゼノービアが母息子のように見えてしまうという難があったが、しかしそれは大した問題ではない。問題だったのは彼女の発声で、いつもビブラートがつきまとっているのである。それと音程がぴしっと決まらないことがままある。そのため一人で歌っているときはまだ紛れるのだが、ジェシカ・プラットとの二重唱がきれいにはもらないのだ。二重唱は和音をかなでながらレガートに音が移行していくこともあるし、小鳥がさえずるようにスタッカートでパッパッパッパといくところもあるのだが、聞いていてもう少しのところで不完全燃焼してしまうのだ。惜しいし残念である。
プブリアのラッファエッラ・ルピナッチは出番こそ少ないが安定した立派な声だった。
神官(バス)のディミトリ・プカラツェ(正確な発音不明です)も迫力のある低音を響かせていた。
指揮のクラッチフィールドは遅いところはなぜというくらい遅く、いきなり早くなると早い。合唱などが出て来てフォルテになるとフォルテのまま猛進して肩に力がはいりすぎた印象をうける。ロッシーニは力強さと同時に軽さが必要だ。楽しくわやわややっているかと思うと、その勢いが止まらなくて狂気の寸前までいくような迫力も時にはある。しかし、力を入れるべきところと柔軟性がはっきされるべきところ、テンポもアッチェレランドをふくめ沸き立つようにテンポが早くなっていくところなどが欲しい。
演出は映画監督でもあるマリオ・マルトーネ。衣装は時代衣装であったが、舞台装置は半透明の紗幕が縦横にならんで迷路のようjになっている。それが場面が展開すると、ピアノ線で幕が一枚、一枚引き上げられるといったのがメイン。照明によって床は朱色や緑色に染められたりはするし、舞台奥に月らしきものが出たりもする。
趣味が悪いところはないし、意味不明の読み替え演出でもないが、すべてがミニマムに切り詰められていて、予算が厳しいことを反映しているのだなと多くのひとが思ったことだろう。
オペラの最終場面で長々と字幕がでて、史実ではアウレリアーノやゼノービアはこうこうだったと出て来たのは僕には賛成できなかった。音楽に集中できなくなるし、それはむしろプログラムに書いてくれればよいことではなかったか。あるいはあまりに演出がやれることが切り詰められたので、最後に理屈を述べたくなったのだろうか。サイードの『オリエンタリズム』を引用していた。

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