《仮面舞踏会》
ヴェルディのオペラ《仮面舞踏会》観た(アレーナ・ディ・ヴェローナ)。
指揮はアンドレア・バッティストーニ。演出は今年の新演出でピエル・ルイジ・ピッツィ。
いくつか前の記事に記したように、《仮面舞踏会》のストーリーはもともとはスウェーデン王グスタフ3世の暗殺事件にもとづいたスクリーブの戯曲が原作だった。
スクリーブは暗殺事件に、新たにグスタフ王とその忠実な部下の妻との恋愛(不倫関係だが、プラトニックなまま)という要素を付け加えている。
当時の検閲の圧力によってこれをボストンの総督に変えたのである。
あらためて、ヴェルディの音楽の圧倒的な劇的迫力を感じた。単に劇の流れを雄弁に音楽が語っているだけではない。気がついたことをいくつか記しておく。
1.重唱の複雑さが極度に達しているのだが、それが劇をわかりにくくするのではなく、むしろ劇の緊張をたかめている。この芝居は、ボストンの総督の治世に対し、満足している者と、彼に不満を抱いて暗殺を狙っている連中がいる。だから、合唱が出て来たときに、単にテノールやバスやソプラノがいるというのでなく、合唱は主人公であるリッカルドに対しての姿勢の異なる2グループからなっているのだ。
重唱の場面は多い。リッカルドと忠実な家臣レナート、その妻アメリア。別の場面ではそれにウルリカ(女占い師)が加わる。様々な立場からの台詞がその台詞に応じた形の音楽でかなでられ、それに合唱がかぶってくることさえあって、舞台の音楽的進行は非常に複雑であるのだが、理解しにくいことはまったくない。これはヴェルディが《リゴレット》の重唱でやってみせたことをさらに複雑にさらに精妙にやってみせているということだろう。しかもこの重唱は息が長いものが多いのだ。
2.これはあまりというかほとんど言われていないことだが、《仮面舞踏会》はオペラセリアの要素、オペラセリアの伝統を引き継いでいるということだ。無論、リッカルドとアメリアの道ならぬ恋というものが前景化されているので、二人のロマンティックな感情とそれを抑えねばという切ない気持ちが音楽的に聞き所、演技的に見せ所であるのは言うまでもないし、だからこそ、二人の密会がレナートの眼の前で発覚したときに、レナートは忠臣から逆にリッカルドの暗殺者へと180度立場を変えるわけである。そのドラマが《仮面舞踏会》の中心的ドラマであることは言うまでもない。
しかしながら、そのことを断ったうえでいえば、リッカルドは実に立派な君主なのである。アメリアに惹かれながらも、一線を越えぬように抑制している。それどころか自分を暗殺しようとするものがいるという警告を何度も受けながら、そのものたちの逮捕や弾圧に走ろうとする気配が微塵もないのだ。
レナートの誤解にもとづいて、仮面舞踏会で彼に刺され死ぬ間際も、アメリアの潔白を説き、レナートをゆるしている。これは君主の美徳が示されておわるオペラセリアのパターンではないか。ただし、伝統的なオペラセリアでは君主は暗殺されるのではなく、暗殺未遂があってもゆるしたり、戦争などで死にいくきわに寛容の美徳を示したりすることが多いのであるが。
そう考えると、レナートが第一幕であなたなしでは祖国はどうなるでしょうという歌もきわめて納得がいく歌である。
ヴェルディが偉大なのはこういうオペラセリアの伝統を踏まえ、かつ引き受けつつ、不可逆的とも言える大胆な変質、変化を加えてもいることだ。レナートの第一幕の歌も、別方向から考えれば、彼のリッカルドに対する態度が180度転換することで一層劇的な緊張を激しいものにしているからだ。
この日の演奏はそうしたヴェルディの音楽の高みにふさわしいものであった。バッティストーニの指揮はいつもながら冴えわたっているし、リッカルドのステファノ・セッコは発音も発声も音楽的表情も素晴らしかった。レナートのルカ・サルシも力演、力のこもった歌だった。両者と比較するのは酷なのかもしれないが聞きおとりしてしまったのはアメリアのヴィルジニア・トーラ。ウルリカはElena Gabouri. オスカルはナタリア・ロマン。
演出のピッティは劇の展開の理解を助け、なおかつ見て美しい。基本的にアメリカ総督の線で組み立てている。
ヴェルディの成熟した音楽技法、劇的緊張を心ゆくまで堪能した。
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