《セビリアの理髪師》(つづき)
ROFの《セビリアの理髪師》の続きである。
今回の演出では、まなざしというものが前景化されていると思う。いくつかそう思わせる要素はあるのだが、1つはモック役、すなわち、全く歌わないし、台詞のない男がずっと舞台上にいる。彼は舞台で展開する事態をずっと観ているわけだ。
また、第一幕の終わりのコンチェルタートの部分では舞台上方にあるスクリーンに人間の目が最初は2つうつしだされ、交互に瞬きしている。やがてめが3つになったり、瞬きが激しくなったりして混乱を示す。その時点では音楽も渦をまくような激しいものとなっており、世界あるいは秩序が揺らいでいることが示唆されている。
思えば、《セビリアの理髪師》も原作者はボーマルシェなわけで、フランス革命前夜の作品である。ロッシーニの曲も、オペラ・ブッファと思ってリラックスして聞くのもよいのだが、案外、密かに不穏な動きが埋め込まれていると思って聞くのも悪くないのだと思う。目が周り、安定した秩序は崩壊の寸前までいくのだ。崩壊のぎりぎり寸前でとどまるのがロッシーニの時代であり、性格である。思えば、ロッシーニのオペラに嵐の場面が多いのも、革命の時代の轟きを示唆しているのかもしれない。
演出や装置にお金をかけなくても創意工夫に富み、歌唱力が充実していれば観客は評価する。3回目の公演は売り切れで、券求むと書いた紙を掲げている人もいた。ROFの補助金カットのつづくご時世へのチャレンジは見事な勝利をおさめたと言ってよいだろう。
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