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2014年8月14日 (木)

《アルミーダ》

MUSICA: ROF AL VIA CON L'ARMIDA DI RONCONI (foto: ANSA)

ロッシーニ作曲のオペラ《アルミーダ》を観た(ペーザロ、ロッシーニ・オペラ・フェスティヴァル、アドリアティック・アレーナ)。

今年のロッシーニ・オペラ・フェスティヴァルの最初の演目である《アルミーダ》を観た。この作品の原作はタッソの『解放されたエルサレム』という長大な叙事詩である。トルクワート・タッソは日本ではなじみが薄いが、イタリアではもちろん、ヨーロッパの大詩人であり、生きていた時期(1544ー1595)はイギリスのシェイクスピアやスペインのセルバンテスと重なる。
オペラの世界で言えば、シェイクスピアがロマン派以降にオペラ化されたのに対し、タッソの作品はバロック時代から様々な作曲家によってオペラ化された。オペラではないがモンテヴェルディはマドリガーレに作曲しているし、ヘンデルの《リナルド》をはじめとしてヴィヴァルディ、ヨンメッリ、グルック、ハイドンらがオペラ化しており、そしてロッシーニも《アルミーダ》という作品を書いている。
ロッシーニの《アルミーダ》は、上述のように原作はタッソの叙事詩『解放されたエルサレム』だが、リブレットを書いたのはジョヴァンニ・シュミットで、すでにオペラ《エリザベッタ》で共作の経験がある。
シュミットは古典主義者だったので、場所の一致が守れないことや、コンチェルターティ(重唱)のために、レチタティーヴォの量を少なくせざるをえないこと、第二幕にバレエの長い場面があり、やはり台詞を少なくせねばならないことを嘆いていた。
曲に関して言えば、この曲には女性が一人しかおらず、男の人物もテノールが多いということだ。これはアルミーダをイザベラ・コルブランが歌うことを前提にあてがきしたのだと考えてよいだろう。また、この当時のナポリのサンカルロ劇場は3人もテノール歌手を抱えていたという。
音楽は十字軍の戦士にふさわしい勇壮な音楽の部分と、アルミーダがリナルドを誘惑したり、愛の二重唱を歌ったりする。終わりのほうでは、アルミーダの愛の園で愛欲に溺れているリナルド(シラグーザ)を別の2人の戦士が救出にやってくる。リナルドが逃げたのを知って、アルミーダは追いかけ、追いつき、せつせつとリナルドに訴える。ここはソプラノの聞かせどころで、たっぷりとロマン主義的な感情が盛り込まれている。音楽的にはロッシーニ的ロマンティシズムとでも言うべき様式観の整ったしかし音楽的には盛り上がるところである。
この日の上演は、指揮がカルロ・リッツィ。めりはりが効いていて、しかるべきところではスイングもして気持ちがよい。演出はルカ・ロンコーニ。十字軍の騎士たちは、シチリアの人形劇の人形を模している。人形はもともとは実際の戦士を模したのであろうが、それをさらに人間が模しているという面白さがある。アルミーダ(カルメン・ロメオ)やその叔父のイドラオテ(カルロ・レポーレ)は、カラスのような真っ黒な衣装でお尻の部分や腕に羽根が生えていたりするので、敵味方は一目瞭然であるし、劇画的な面白さがある。この台本はそもそもが美女の魔女が十字軍の騎士を色香でまどわせ、愛の園でとりこにするというストーリであるから、こういう劇画調の演出はピッタリである。
演奏に関して言えば、シラグーザは絶好調だったし、他のテノール(ディミトリ・コルチャックやランドール・ビルズ)もよかった。ビルズは抜擢であり、一人で歌うと立派だが、シラグーザ、コルチャックと一緒に歌うとまだ若いということがうかがえた。
一番問題だったのはカルメン・ロメウのアルミーダだ。この役は、美貌を求めていてそれは十二分に叶えられていた。もう一方で圧倒的な声をロッシーニの曲は求めているがその点に関して観客は満足できない人もいて、ブーイングも一幕の終わりおよび終演時に出た。リナルドが愛の園から離れようとするときに切々と訴えるその時の歌には聞き手の期待も大きく高まる。美貌だけでは満足できないのだ。声で圧倒されたいという願望が満開になる瞬間がロッシーニの音楽にはあるのだということを痛感した。

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