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2014年8月23日 (土)

《パルミーラのアウレリアーノ》

《パルミーラのアウレリアーノ》で今年のロッシーニ・オペラ・フェスティヴァルは幕を閉じた(ペーザロ・ロッシーニ劇場)。

1回だけ観ると、たとえば指揮が固い、テンポの緩急が遅いときは遅いし、早くするときはじょじょに盛り上げるのでなくいきなり早くなるといった不満が気になる。あるいはアルサーチェの歌手のビブラートが強すぎるとか音程が不安定なところがあり、そのためジェシカ・プラットとの二重唱がうっとりするものにならないと言ったことなどが気になった。
しかし、複数回聞くとすでにそのことは既知のことになるので、より楽曲や芝居に集中できるようになる。マルトーネの演出は、舞台装置という点では半透明の紗幕を縦横にならべて(というかピアノ線のようなもので吊ってある)迷路というか通路として使っているが、照明および主要人物、合唱(民衆や兵士たち)の衣装が美しく、つねに舞台上の人物の配置が絵画的に美しい調和を示していることに気がついた。また、女王のゼノービアはたっぷりとした布とドレープ、顔のメイクで、ジョットの絵画の人物のような威厳と気品を感じさせるものになっていた。歌手の動き、ジェスチャーもそれを補強していたと思う。
この日の演奏は、第一幕のなかばで大きな喝采を受けたあと、ジェシカ・プラットが燃え上がったようで、しっかり声が出ていたし、細かい表現も入念に歌っていた。ローマ皇帝のスパイアーズもそれに匹敵する熱唱だった。彼の上から下までの広い広い音域を駆使する声は声質も含めて独自の色、ニュアンスを表現することができる。
皇帝の慈悲で、皆丸くおさまるというとってつけたような終わりの部分に字幕が出るのはやはりどうかと疑問を感じたが、史実とは異なるということが言いたかったのだろう。この最後の部分(皇帝の寛大な赦し)がストーリの上でもとってつけたようなのだが、字幕がでて、なおかつ指揮がテンポが遅めなのでわっと盛り上がって終わるという感じにならないのが、少し残念だった。
とはいえ、全体としては《パルミーラのアウレリアーノ》が様々な魅力に富んでいることはよくわかった。単に《セビリアの理髪師》に使い回されたメロディや序曲をもともと使ったオペラというだけではない。このオペラ独特の魅力はこれからも上演されるたびに知られていくことだろう。

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