グラインドボーンの決算
グラインドボーンの最終日には、慣例で、創設者の子息クリスティ氏が来年のプログラムを発表するのだという。
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グラインドボーンの最終日には、慣例で、創設者の子息クリスティ氏が来年のプログラムを発表するのだという。
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ヘンデルのオペラ《リナルド》を観た(イギリス、グラインドボーン)。
これは前に記事としてあげたロッシーニの《アルミーダ》と原作は同じで、トルクワート・タッソの『解放されたイエルサレム』である。
ただし、いくつか異なる点がある。
1.ヘンデルの方にはリナルドの婚約者アルミレーナが出て来るがロッシーニには出てこない。
2.それゆえ、ヘンデルではリナルドをめぐり魔女アルミーダとアルミレーナ(ゴッフレードの娘)の間に三角関係があり、アルミーダは手下を使ってアルミレーナを誘拐したりする。この三角関係はロッシーニにはない。
3.ヘンデルではリナルドはアルミーナとの愛におぼれることはない。ロッシーニではその愛の園のシーンが長々とある。
4.オペラの終わり方であるが、ヘンデルでは、アルミレーナとリナルドが結ばれて終わるのに対し、ロッシーニでは棄てられたアルミーダが復讐を誓って終わる。
ヘンデルの時代の上演からそうであったのかどうかは不明だが、今回のカーセンの演出では《リナルド》は随分コミカルに演じられていた。たとえばアルミーダがリナルドが自分の意のままにならないので殺そうかと思うのだが、あまりにハンサムなので殺せない、という字幕が出るところでは観客は爆笑なのであるし、リナルドにはその気がないのに、魔女アルミーダが強引に迫るという点をコミカルに舞台上でも仕立てているのである。
ロッシーニの場合は、アルミーダとリナルドの愛は、魔法が介在しているにせよ、まったく茶化す要素はない。だからこそ、棄てられたアルミーダの悲しみ、憤怒が爆発するのである。今回のロンコーニの演出でも微笑みをさそうことはあっても、笑い声が沸き起こることは皆無だったし、それを意図していたとも思えない。ロッシーニはオペラブッファは面白おかしいが、オペラ・セリアは笑いを求めていないのだと思う。
その点ヘンデルや初演当時の人たちはどう考えていたのか興味のあるところだ。
キャストは
Conductor Ottavio Dantone
Director Robert Carsen
Revival Director Bruno Ravella
Designer Gideon Davey
Movement Director Philippe Gireaudeau
Lighting Designers Robert Carsen and Peter Van Praet
Rinaldo Iestyn Davies
Goffredo Tim Mead
Eustazio Anthony Roth Costanzo
Almirena Christina Landshamer
Armida Karina Gauvin
Argante Joshua Hopkins
A Christian Magician James Laing
Orchestra of the Age of Enlightenment
で、指揮者のオッタヴィオ・ダントーネとオーケストラ・オブ・ジ・エイジ・オブ・エンライトンメントは素晴らしかった。オケが活き活きとしたリズムをはじけるように奏する。管楽器も古楽器の豊かなニュアンスを活かしつつテンポはきびきびとしているのである。
この《リナルド》はすでに2011年の上演のものがDVDになっているが、今回大きくことなるのはタイトルロールが女性ではなくて、カウンターテナーのIestyn Davies が歌っていることだ。カウンターテナーが4人も出ているのである。リナルドもよかったし、アルミレーナの父ゴッフレードのティム・ミードも弱音の透明感まで含めて実に見事な表現だった。
カーセンの演出は、中学生か高校生のいじめにあっている少年が十字軍を夢見るというもので、学校の制服を来た女子高生のかっこうで出て来るし、黒板があったり、自転車置き場があったり、最後はサッカーがあったりという構想で、かなり宗教色を脱色している。DVDで観た時にはあまりピンとこなかったが、実際に見ると笑えて楽しい。
ロンコーニの場合は騎士をシチリアの人形劇の人形(これはシチリアでのイスラム教徒対キリスト教徒の戦いを描いた人形劇で使用される)が大きな箱のなかに並べられているし、歌手たちも人形そっくりのメイクをしているので、生々しい形ではなく伝統的なシチリアの人形劇というフィルターを通してはいるが宗教色(十字軍はもともとそのカタマリとも言えるわけだー無論他の要因も複合的にあったにせよ)は抜けていない。こちらはセリアとしての格調を感じる演出で、個人的には審美的に納得のいくものだった。
しかしながら、どちらかと言えば、リナルドが他の十字軍騎士2人がやってきて愛の園から抜け出すところからは、ロッシーニは明らかにアルミーダに深い感情表現を与えている。ほとんどロマンティックといってもよいせつない音階、音型があらわれ、さらに、それが何段階がまえで感情がもりあがるように作られている。リナルドは未練を残しつつもあっさりと2人の騎士に連れ去られるように「正気」の世界に戻って行く。
ロッシーニの場合、女性の役はアルミーダだけで、当時の大歌手イザベラ・コルブラン(おそらくそのころロッシーニと親密な関係になった)のために書いている。
一方、ヘンデルの《リナルド》で一番有名な「泣かせてください」はアルミレーナがアルガンテ(本来はアルミーダの恋人なのに、アルミレーナに惚れてしまう)に迫られるがそれを拒絶して歌うアリアだ。
両者の聞き比べ、見比べは非常に興味深かった。いろいろ疑問がわいてくるが、すぐに答えが思い浮かばないものも多い。どちらのオペラも単独でももちろんそれぞれ楽しめるものだし、大いに堪能した。
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ロッシーニ・オペラ・フェスティヴァル(以下ROFと略する。ROF の呼称は当該団体もしばしば用いているものである)の集客数が少し落ちた(地元紙、8月23日による)。
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《パルミーラのアウレリアーノ》で今年のロッシーニ・オペラ・フェスティヴァルは幕を閉じた(ペーザロ・ロッシーニ劇場)。
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ロッシーニ作曲小荘厳ミサ曲を聞いた(ペーザロ、ロッシーニ劇場)。
原題は Petite Messe Solennelle でフランス語である。周知のように、ロッシーニは後半生をフランスで過ごした。曲は友人で銀行家の
Alexis Pillet-Willに委嘱されて作ったものだ。当初は編成も小さく、2台のピアノとリードオルガン(armonium)、12人の歌手(4人のソリストと8人の合唱)のために作曲されたのだが、後世に他人がオーケストレーションするよりはということで、ロッシーニ自らオーケストラ版も作った。
この日演奏されたのはROFの芸術監督であるアルベルト・ゼッダ指揮によるオーケストラ版。ボローニャ歌劇場管弦楽団と合唱団。ソリストはソプラノがオルガ・センデルスカヤ、メゾがヴェロニカ・シメオーニ、テノールがディミトリ・コルチャック、バスがミルコ・パラッツィである。オーケストラ版は当然ながらオケの人数も合唱の人数も多いので重厚な響きがする。音楽そのものも、ロッシーニの最晩年の曲のせいか、念入りに書かれてはいるのだが、あふれるようにメロディーが沸くという印象ではない。同じ宗教曲でも「スターバト・マーテル」の方が、軽やかな歌に富んでいると言えよう。
とはいえ、マエストロ・ゼッダはまったく年齢を感じさせぬ生き生きとした棒。というより、ゼッダは世代が違うから、カラヤン風の縦の線をそろえることに重きを置く(置きすぎる)という弊をまぬがれており、中年以下の世代より、かえって自由で風通しのよい音楽が聞けるのだ。それが日本でもゼッダの指揮が人気を博している大きな理由の一つではないかと筆者は考えている。
ミサ曲であるから、神をたたえる歌詞なのは当然だが、終曲のmiserere の痛切な響きを聞くと、神に魂の救いをもとめる気持ちが晩年のロッシーニには強かったのかと推測される。むろん、合唱が軽やかにかけあいをするテンポの早い曲もあるのだが。
プログラムによると、1865年6月にロッシーニはリストに手紙を書いている。晩年のリストは叙階を受けて(司祭となって)、ヴァティカンに住んでいたのだ。リストに仲介してもらい、教皇に、教会内で女性が歌うことの禁止を解除してもらおうと考えたのだ。このときの教皇はピオ9世。リストとのやりとりがあり、やがて教皇大使フラヴィオ・キージを介して、ロッシーニが直接、教皇に手紙を書く。が、結局、女性が教会で歌う許可はおりなかった。
オーケストラ版も充実した響きだが、ピアノ版も実演を聞いてみたいと思った。
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来年のロッシーニ・オペラ・フェスティヴァル(ROF)についてマリオッティ総裁が語っている(8月14日、Il resto del carlino紙による)。
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ロッシーニの小荘厳ミサ曲にまつわることについて書く(ペーザロ、ロッシーニ・オペラ・フェスティヴァル)
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エヴァ・ポドレスのリサイタルを聞いた(ペーザロ、ロッシーニ劇場)。
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ホアン・フランシスコ・ガテルのリサイタルを聞いた(ペーザロ・アウディトリウム・ペドロッティ)。会場のアウディトリウム・ペドロッティはロッシーニ音楽院の講堂にあたる建物だが、ここではロッシーニ・オペラ・フェスティヴァルの早い時期にはオペラも上演された。
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若き日のロッシーニと若き日のフェリーチェ・ロマーニによるオペラ・セリア《パルミーラのアウレリアーノ》はよく聞いてみると魅力に富んでいた。
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今回の上演の配役は、アウレリアーノがマイケル・スピアーズ(テノール)。彼はテノールだが、低いほうもバリトン並みにでる特殊な声で、音域が非常に広く、しかも一瞬でオクターブ以上離れた音にぽーんと飛ぶことを楽々こなしているように聞こえる。なかなか立派な皇帝だった。
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ロッシーニの《パルミーラのアウレリアーノ》を観た(ペーザロ、ロッシーニ・オペラ・フェスティヴァル)・
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経済危機の時代にオペラをどう作るかをROF (ロッシーニ・オペラ・フェスティヴァル)の総裁ジャンフランコ・マリオッティが語っている(Corriere Adriatico, 8月13日)。
「《セビリアの理髪師》では、ウルビーノの美術学校の生徒が演出、舞台装置、衣装、ヴィデオを担当したが、最高のロッシーニ歌いをそろえて、ロッシーニ劇場では喝采がわきおこった」
「たしかに演出家や舞台監督や衣装家がいるプロダクションより安上がりだが、節約のためにそうしたのではない。美術学校の生徒とは何年も前から協力していて、今回はすっかりお任せした。ROFは監視していただけだ」
監視という言葉は妙に響くかもしれないがROF の鉄則として、どんな演出をしてもよいが歌詞(リブレット)に手を加えてはならないというのがある。見かけは時代を変えてもよいのだが。こうして、若いエネルギーが発散し、生徒たちはヘルメットをかぶった黒子として舞台装置を動かす役も果たしていた。
ROF を報道する新聞・雑誌は130にのぼるが、そのうち70%は海外のものだという。ウルビーノ大学の研究によると、メディアの注目は、800万ユーロの広告をただでやってもらったことに相当するという。さらに総裁は語る「活動の80%は市内でのものだ。フェスティヴァルに使われた1ユーロは7倍になってかえってくる」。しかもROFの代金は変わっていない。「聴衆は質に厳しいが、保守的ではなく、考えさせることをもとめる聴衆だ」。
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ROFの《セビリアの理髪師》の続きである。
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ジョヴァンニ・バッティスタ・ヴェッルーティについての講義・コンサートを聞いた(ペーザロ・ロッシーニ・オペラ・フェスティヴァル)。
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ロッシーニのオペラ《ランスへの旅》を観た(ペーザロ、ロッシーニオペラフェスティヴァル)。
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ロッシーニの弦楽四重奏曲に関するレクチャーと演奏を聞いた(ペーザロ、ロッシ二・オペラ・フェスティヴァル)。
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ロッシーニ作曲の《セビリアの理髪師》を観た(ペーザロ、ロッシーニ劇場)。
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ロッシーニ作曲のオペラ《アルミーダ》を観た(ペーザロ、ロッシーニ・オペラ・フェスティヴァル、アドリアティック・アレーナ)。
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オルフ作曲の《カルミナ・ブラーナ》を聞いた(アレーナ・ディ・ヴェローナ)。
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ヴェルディのオペラ《仮面舞踏会》観た(アレーナ・ディ・ヴェローナ)。
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ビゼー作曲のオペラ《カルメン》を観た(アレーナ・ディ・ヴェローナ)。
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ドロットニングホルム宮廷劇場を見学した。
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ヴェルディの生家と呼ばれている家は、ヴェルディが1830年以降に住んだ家であるらしい。
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前の記事でヴェルディの《仮面舞踏会》が検閲によってリブレットを改訂せざるをえなかったことと、原作とどう変わったかを記した。それは最初と最後であって、中間のプロセスがあるので記しておく(この項、John Rosselli のThe life of Verdi による)。
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その史実をもとにスクリーブが戯曲『グスタフ3世または仮面舞踏会』を書いたのだ。ただし、そこにはグスタフ3世とアンカーストレム伯の妻の間の恋愛関係など歴史的な事実というよりはファンタジーが付け加えられていた。
ヴェルディはスクリーブの戯曲をもとにしたアントニオ・ソンマのリブレットに作曲をしたわけである。しかし、王の暗殺というテーマは初演の1850年代にはあまりに過激なものだったので、ナポリでは上演できず、ローマに変更したが、それでも内容をグスタフ3世の暗殺から、アメリカのボストン総督リッカルドの暗殺に変えることを余儀なくされた。グスタフ3世は、実際には恋愛沙汰ではなくて、むしろ貴族階級との対立から暗殺されたとのことである。ロシアと開戦したのだが、貴族たちの同意をとりつけなかった。伝統的にはそれがルールであったのだが、グスタフ3世はむしろ貴族階級の特権を剥奪するクーデターを挙行した王だったのだ。
芸術を好んだ人で、彼が兇弾に倒れたのが仮面舞踏会であったのも彼らしいとも言える舞台だった。彼の遺品が見られるのは王宮の一隅にある王家武儀博物館(Livrustkammaren)で、そこには彼と王妃の結婚式の衣装も見られるし、彼らが用いた馬車も展示されている。いずれもロココ趣味にいろどられたものであり、彼はヨーロッパの中心部の流行に敏感なお洒落な王様だったのだが、王妃との関係は冷え冷えとしたものだったようだ。
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ら《偽の女庭師》の第二幕。アルミンダ(市長の姪)はベルフィオーレをサンドリーナの件で責める。ナルド(サンドリーナの従者)は小間使いセルピエッタを口説くがうまくいかない。サンドリーナは自分の正体(本名はヴィオランテ)を認めないが、そこへラミーロがやってきてベルフィオーレが殺人犯だと糾弾するので、自分の正体を明かすことで、ベルフィオーレが殺人を犯していないことを証明する。しかし、その後で、あれはベルフィオーレを救うための虚言だったと言って、ベルフィオーレは正気を失う。サンドリーナも正気を失い逃げさる。このあたりは演出によってストーリーが変わってくるようで、あらすじを書く人によって食い違いがみられる。いずれにせよ、暗闇が一種の狂気を表す空間となっているのが興味深いし、そこでの登場人物たちの交錯、相手の認識のずれ具合をどう演出するかも演出の工夫のしがいがあるところだろう。
第三幕はサンドリーナとベルフィオーレが正気を取り戻しむすばれ、アルミンダとラミーロがむすばれ、セルピエッタとナルドが結ばれ、市長が残る。
三組の恋人、あるいは7人の登場人物が複雑に思いを寄せたり片思いだったりするのは、最初は理解しにくいが演出が巧みであればそれほどフォローしにくくはないということが判った。また、これはセルピエッタなどはペルゴレージの《奥様女中》を想起させるように、階級をとびこえて玉の輿をねらっているわけだが、最終的にはみなそれぞれ階級のつりあったカップルが形成される。階級意識や、無意識や狂気への示唆はあるが、それを正面から取り上げてこれぞテーマとするほど過激ではないのだが、それだけに演出しだいで予定調和にも相当挑発的にもなりうるドラマである。
この劇のリブレット(脚本)は、モーツァルトより前にパスクワーレ・アンフォッシという作曲家に提供されたもので、モーツァルトのリブレットにはリブレッティスタの名は記されていないのだが、上記のことからジュゼッペ・ペトロセッリーニが書いたものとされている。ゴルドーニがそもそもの原作とのこと。もっともっと上演されてしかるべきオペラであると強く感じた。
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モーツァルト作曲《にせの女庭師》を観た(イギリス、グラインドボーン)。
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