« 2014年4月 | トップページ | 2014年6月 »

2014年5月28日 (水)

《シモン・ボッカネグラ》

クリックすると新しいウィンドウで開きます
ヴェルディ作曲のオペラ《シモン・ボッカネグラ》を観た(東京文化会館)。
ローマ歌劇場の引っ越し公演で、指揮はムーティ。
このオペラは、ストーリーがやや複雑である。複雑と言っても理解不能というわけではなく、時間経過があるのと、登場人物が多めということだ。
プロローグがあって、そこではシモン・ボッカネグラが総督に選ばれることと、シモンはフィエスコの娘と恋仲なのだが、シモンは平民(すぐれた海賊)でフィエスコが貴族であることから、フィエスコが2人の仲を認めず、娘を幽閉し、娘は死んでしまう。
シモンと娘の間に生まれた女の子は行方不明。
第一幕はその25年後。行方不明であった女の子は、グリマルディ家にひろわれ、アメーリアと呼ばれている。ガブリエーレという若者(フランチェスコ・メーリが格調高く熱演)と恋仲である。しかしグリマルディ家でアメーリアを育てているのはアンドレア(実はフィエスコ)なのだが、なぜか二人は祖父と孫であるということに全然気がついていない! 
アメーリアのもとに総督(シモン・ボッカネグラ)がやってきて、自分の腹心パオロ(これがイアーゴ的な悪い奴)との結婚をすすめようとするが、アメーリアは自分の心境を説明し、さらに自分の生い立ちを説明する過程で二人が親子であることが判明! 感動の父娘の対面・抱擁となる。シモンはアメーリアをパオロと結婚させるという考えを捨てるが、そのことをパオロは逆恨みする。
こうしてジェノヴァ共和国の政治における平民派対貴族派の対立(細かく言えば、さらにそこに皇帝派と教皇派の対立も絡む)と、フィエスコ(祖父)、フィエスコの娘マリアと恋仲だったシモン・ボッカネグラ、シモンの娘アメーリア(実の名はマリア、母の名と同じなのだ)と親子3代にわたるこれも政治が絡んだ愛憎と和解の物語が展開される。
アメーリア役は、バルバラ・フリットリに代わってエレオノーラ・ブラットが歌った。表現力に富んだ声で、高いところで、往年のステッラを想起させるような叙情的なヴィヴラートがかかる。
ムーティの指揮は、テンポをゆったりめに取り、オーケストラの縦の線がそろうようにところどころで確認を入れるような音楽の進め方である。安心して聞ける半面、音楽の勢いにのってこちらの気持ちが運び去られるような奔放な流れは生まれにくい。
この曲は、もともとは1850年代(つまり、《リゴレット》や《椿姫》、《イル・トロヴァトーレ》の後)で作曲され、それから20年以上たって改作したものである。改作したのは
《オテッロ》作曲の直前であり、パオロという役どころは、《オテッロ》のイヤーゴに似ている。腹心の部下でありながら、主人を裏切るという役回りが共通しており、音楽的にもシニカルな悪という表現が共通している。
シモンはジョルジョ・ペテアン。フィエスコは、ドミトリー・ベロセルスキー。バリトンとバスの対決を何度も聴けるのが、このオペラの醍醐味の一つである。パオロもバリトンなので、主要人物3人が低い声。あとは若い恋人2人がテノールとソプラノという構成である。
一方で、海のさざ波を思わせるヴァイオリンの音型が形をかえて何度も出てくる。それが、声は低音部が多いのだが、海の場面は、さわやか、あるいは清浄な感覚をもたらしている。海と結びつきが強いのはアメーリアである。
実に充実した音楽であり、だれるところが微塵もない。こうした音楽を生で聴けるのは幸せなことだ。
現行版は、先に述べたように、ヴェルディ自身によって改訂され1881年に上演されたものである。オーケストラの充実ぶりは文句ないものであるが、個人的には1850年代の初演版もいつか観てみたい、聞いてみたいと思った。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2014年5月24日 (土)

《コシ・ファン・トゥッテ》

ライブビューイングで《コシ・ファン・トゥッテ》を観た。


いつものことだが、ニューヨークのメトロポリタン歌劇場のライブを録画したものを映画館で観るというものである。

指揮者レヴァインが2年ぶりに復活した時に選んだ曲目がヴェルディの《ファルスタッフ》とモーツァルトの《コシ・ファン・トゥッテ》だった。この演奏でも、レヴァインは演奏する歓びに満ちていたと思う。

コシ・ファン・トゥッテは、重唱が多いオペラである。前半部では、姉フィオルディリージと妹ドラベッラが入れ替え可能であるような形で、二重唱が多用される。

ストーリーの途中から姉妹は、違いが出てくる。姉フィオルディリージの方が、貞操へのこだわりが強く、新たな恋人へ惹かれる気持ちと、戦争に行った(とされている)婚約者の間に分裂する気持ちを歌う。彼女の歌の解釈は
歌詞を額面どおりに受け取ってシリアスに歌うか、それともこのオペラにおいて恋愛は賭けの対象になっているのであって、一種の冗談であることを重視して、歌詞が皮肉に聞こえるような感じで軽く歌うこともありうると思うが、この日のフィオルディリージは、まったくロマンティックに歌っていた。

《フィガロの結婚》におけるケルビーノもそうであるが、モーツァルトにはロマン派の先駆け的な曲があって、それをどういう様式で歌うかは、なかなかむつかしい問題だと思う。
 個人的には、本人はシリアスぶっているのだが、第三者が聞くと皮肉に響くような面があってほしいと思う。あまり重くなりすぎないのが全体の様式のバランスをこわさないと思う。
 
 とは言え、フィオルディリージ、ドラベッラ、グリエルモ、フェッランドはそれぞれに良かった。ドン・アルフォンソも皮肉がきいていた。デスピーナは少し発音が聞き取りにくかったが、演技力はあった。
 
 モーツァルトはオペラを書く筆が冴え渡っていて、こわいくらいだ。陽気な曲、静かに出発した人たちの無事を祈る曲、怒りを表す曲などソロであれ、二重唱であれ、合唱であれ、充実しきっている。


| | コメント (0) | トラックバック (0)

2014年5月17日 (土)

ゼッダ、東京フィル、定期公演

アルベルト・ゼッダ指揮で東京フィルハーモニー交響楽団(以下、東フィル)の定期演奏会を聴いた(六本木、サントリーホール)。


最初はシューベルトの交響曲第三番。シューベルトがわずか18歳の作曲であるが、シューベルトにせよ、ロッシーニにせよ、20歳になるかならぬかで後世に残る傑作を書いている。才能は年齢ではないのだ。

われわれは、未完成やグレートを聞き慣れているので、その面影(先取り)を聴いてしまう。しかし、この曲にはそのどちらとも違う魅力、若さにあふれるチャーミングな魅力がある。ゼッダの指揮は、シューベルト特有の延々と繰り返す音型から沸きおこる歓びの爆発や、あるいは転調により表される心のかげりを余す所なくフレッシュな棒で伝えていたし、オーケストラはその棒に実に敏感に応えていた。

東フィルには脱帽するしかない。たとえば、コントラバスもドソドソとゆっくりオケを支える時は、風邪のように柔らかい音、ごそごそっとうごめく時にはアタック音をきかせ、表情といいリズムといい実に音楽していて気持ちがいい。

2曲目がロッシーニのカンタータ『ジャンヌ・ダルク(イタリア語ではジョヴァンナ・ダルコ)』。現代作曲家シャリーノ(昨年であったか、ポリーニの企画でイタリア現代音楽を紹介するシリーズでも紹介されていた作曲家である)の編曲によりメゾソプラノとオーケストラに編曲された版。原曲はピアノ伴奏らしい。Youtube などで何種類かの演奏を聴くことができるが、オーケストラ伴奏のものと、ピアノ伴奏のものと両方ある。

この日歌ったメゾは、テレーザ・イェルヴォリーノという25歳の若手だが、すでにして、自分のスタイルを確立し、堂々たるロッシーニを聴かせた。メゾソプラノなので低音が実に気持ちよく響くのであるが、高音も輝かしく、アジリタ(早いパッセージの細かい動き)も安心して聴いていられる。今では随分知られるようになってきたが、ロッシーニは、オペラブッファだけでなく、本格的オペラセリアを数多く書いているが、このカンタータはそちらに近い。おおまじめに勝利を歌いあげている。イェルヴォリーノの歌でぜひロッシーニのオペラセリアなりオペラブッファ全曲を聴いてみたいと思った。

全曲を聴いてみたいと強く思ったのは、後半のオペラ《ギヨーム・テル(ウィリアム・テル)》の中のバレエ曲2曲を聴いたときだ。ダンサー、あるいはバレリーナの姿が目に浮かぶ音楽だが、オーケストラだけで鳴っている。ここまで東フィルの音楽が充実しているのだから、ぜひ、ロッシーニのオペラセリアの全曲通しの上演を聴きたいと思う。

マリピエロ(1880年代生まれのイタリア20世紀の作曲家)の交響曲第2番。第二楽章がバーバーを想起させるものがあったが、調べてみるとマリピエロの作曲が早く、逆にバーバーがマリピエロの影響を受けたのかもしれない。マリピエロは、12音技法は用いず、むしろ18世紀以前の様々な旋法や音楽語法を現代的にアレンジして用いている。ヴァイオリンなりヴィオラなりのパーツをとると、古風なのだが、その組み合わせが不協和音になっていたり、ティンパニーの刻むリズムが変則的であったりするのだ。

締めは、セミラーミデ序曲。立派な演奏であった。管にとっての難所でもテンポを緩めることなく前進していくのは爽快である。ロッシーニの場合、単に楽譜に忠実に丁寧に(ゆっくりと)なぞるのでは音楽が活き活きしない。オーケストラ全体がスイングし、ノって来てこそである。序曲の演奏はまさにそうであった。深い満足を得た一夜だった。感謝。



| | コメント (0) | トラックバック (0)

2014年5月 4日 (日)

《自由に乾杯》

ロベルト・アンドー監督の《自由に乾杯》を観た(イタリア映画祭、有楽町・朝日ホール)。

野党のリーダーのオリヴィエ−リ(トニ・セルヴィッロ)は、突如、失踪してしまう。腹心の部下(ヴァレリオ・マスタンドレア)は妻と相談のうえ、双子の兄弟ジョヴァンニを替え玉として使うことにする。
失踪したオリヴィエ−リはフランスへ行き、25年前の恋人(今は夫も子どももいる)の家で隠れる。二人の気持ちの復活具合も見どころの1つ。
ジョヴァンニは、替え玉の役割を楽しんで演じ始める。
政治の世界のどろどろと、双子の兄弟の25年前の恋愛が絡んで不思議な味わいがあるのだが、笑える場面が沢山ある。使われる音楽がクラシック音楽が中心で、とりわけ、ヴェルディのオペラ《運命の力》の序曲(非常に有名な曲で、序曲だけが単独で演奏会で演奏されることも多い)が効果的に使われている。バックグラウンドで流れるだけでなく、主人公が口三味線で歌うのだ。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

《ミエーレ》

ヴァレリア・ゴリーノ監督の《ミエーレ》を観た(イタリア映画祭、有楽町・朝日ホール)。

ジャズミン・トリンカ演じるミエーレは、安楽死を密かに手伝っている。ミエーレは蜂蜜の意味で、仕事の時に使う偽名である。

丁寧に細部まで描かれると安楽死に対するこちらの感覚も揺さぶられる。

彼女が次々に仕事をなしとげるときに、末期症状でなく、人生に飽いているというか厭世的な老人に薬をわたしてしまう。彼が末期症状でないことに気づくと、ミエーレは焦る。そこから二人の間に交流が始まる。最初はきわめてギクシャクした形であるが、じょじょに互いを理解していく。

ミエーレがつきあっている男たちも複数おり、精神的な不安定さを感じさせる描写が時々あらわれる。

最後にどんでん返しがあるが、いやな印象ではなかった。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

《サルヴォ》

ファビオ・グラッサドニア、アントニオ・ピアッツァ監督の《サルヴォ》を観た(イタリア映画祭、有楽町・朝日ホール)。

マフィアの冷徹なヒットマンが、ふとしたきっかけで、敵の盲目の妹に惹かれてしまう。冒頭の場面は、撃ち合いがあるが、物語の中心はむしろ、もともとは敵対するはずの2人の逆説的な交流。ハードボイルドな恋愛映画と言えよう。画面は、独特で、説明的ではなく、主人公の行為が見えない場面や、光量がぎりぎりまで落としてあってよく見えない画面も多い。それが想像力を刺激する仕組みである。

サルヴォという若いヒットマンも、盲目の若い女性も、独特の存在感、表情が素晴らしい。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

《ようこそ、大統領!》

リッカルド・ミラーニ監督の《ようこそ、大統領!》を観た(イタリア映画祭、有楽町・朝日ホール)。

田舎町の図書館員をしていたペッピーノが、ひょうんなことから大統領に選出されてしまい、そこから起こるドタバタ喜劇である。
 
これはイタリア人が見れば、現実に起こった大統領選をパロディ化したものであることは明白だ。現在のナポリターノ大統領が再選されるときの大統領選は迷走につぐ迷走で、大物候補が立候補しても内部の造反で当選しないということが次々に起こった。たとえばロマーノ・プローディは首相とEU委員長経験者であったのに、民主党内から離反者がでて当選しなかったのである。
この映画ではデガスペリ(とうの昔に死んでいる元大統領)やピノッキオに投票するものがいる。ジュゼッペ・ガリバルディにふざけて投票するものが集中したところ、そういう名前の人間がいて当選してしまう。
政治家たちは辞任を迫るが、ペッピーノ(ジュゼッペの愛称)は政治家の腐敗を知り、大統領になることを決意する。そこから愉快な騒動が始まる。そこに新大統領の恋愛も絡んでくる。楽しい映画である。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

《初雪》

アンドレア・セグレ監督の《初雪》を観た(イタリア映画祭、有楽町・朝日ホール)。
アフリカのトーゴから逃れてきた男が、イタリア北部の山村にやってきて地元の少年と交流する。男は旅の途中で妻を失っている。少年は、父を事故で失っている。
山の風景がしみじみと美しいが、そこでの日常生活が淡々と描かれる。特徴的なのは、トレンティーノ州なので、ドイツ語とイタリア語が交錯していることで、さらにアフリカから来たダニは、アフリカの言葉とフランス語およびイタリア語をしゃべることである。
ダニにはごく幼い娘がいる。亡くなった妻に似ているので見てつらいので、彼は娘をこの村においてパリに行こうと決意するのだが、そういう心情がどれくらいリアルで説得力に富むのか、判断に苦しむ。最終的にはその決断は、少年ミケーレとの交流でくつがえったようにも見える(暗示的な終わり方で、はっきりそうと断定できるわけではない)のだが。
大画面で、森や森を歩く姿を観ていると、大東京の真ん中にいることを忘れてしまいそうだ。山で生きる人の呼吸がじんわりと伝わってくる映画だった。少年の祖父ピエトロが渋かった。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2014年5月 2日 (金)

《いつか行くべき時が来る》

ジョルジョ・ディリッティ監督の《いつか行くべき時が来る》を観た(イタリア映画祭、有楽町・朝日ホール)。

ジャズミン・トリンカ演じる主人公が、不幸に終わった出産や夫との離別という苦難をかかえアマゾンに行くという物語である。
なぜアマゾンなのか、今ひとつピンと来なかった。アマゾンの貧民街に住みついて、そこの住民に気持ちを寄せるものの、また、彼女はそこから遠ざかり、あてのない旅を続ける場面もよくわからないのだった。おそらくは、それが大変に感動的な人もいるのだと想像するが、筆者にはぴんとこなかったということだ。縁なき衆生である。
ヨーロッパ人がアフリカや南米に行って、現地の人と交流してうんぬんという物語は、ともすれば恩着せがましい話になりかねない危険をはらんでいると思う。この映画はそうではないと思うのだが、ちょっとでもそういう匂いがすると見る側の警戒感がはたらいてしまい素直な気持ちで見られなくなってしまうのかもしれない。

| | コメント (1) | トラックバック (0)

《多様な目》

シルヴィオ・ソルディーニ監督の《多用な目》を観た(イタリア映画祭、有楽町・朝日ホール)。

ドキュメンタリー映画なのだが、非常に想像力をかきたてられる映画だった。ここに登場するのは、様々な職種の盲人である。彼ら、彼女らの職種はさまざまだし、個性や感性も様々だ。
彼らの多くが述べる不満は、健常者が盲人をひとくくりにして、ある種のきめつけを、たとえ善意からであっても、してしまうことだ。音楽家は、「盲人だから感受性が敏感なんですね」などと言われることに反発する。盲人でも感性の鈍感な人はいくらでもいる、というのだ。
盲人でヨットに乗ったり、スキーをしたり、射的をしたり様々なスポーツに挑んでいる人がいる。
盲人の夫婦がいて、健常者のトンチンカンな(しかし筆者もやってしまいそうな)反応がいかに不適切かを語る。言われてみれば、たしかにそうだ、ということなのだが、聞いていて面白い。なんと言えばいいのか、新たに盲人の視点を獲得する新鮮な驚きというか。時々、画面がブラックアウトするのも効果的だ。われわれは数秒間、盲人の世界を擬似的に感覚するのだ。
編集のうまさもあるだろうし、人の選択もよかったのかもしれないが、クリエイティブな映画であると強く感じた。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

« 2014年4月 | トップページ | 2014年6月 »