《蝶々夫人》
二期会の公演で、プッチーニ作曲の《蝶々夫人》を観た(東京文化会館)。
リブレットは、《ラ・ボエーム》や《トスカ》と同じく、イッリカとジャコーザの2人。
演出は栗山昌良で、様式美にあふれ安定感があり、安心して見ていられる(と言う言い方をするのは、欧米の演出家の《蝶々夫人》には、悪い意味でハラハラさせられることが多いからであるーーこれが日本なの?という疑問が沸騰したりする)。
それどころか陶然とする美ーたとえば、ピンカートンの寄港を知り、一晩中待ちつくす蝶々さんを影絵風に見せるーにことかかない。蝶々さんをはじめ、スズキの所作も自然である。
ということを断ったうえで、圧巻はルスティオーニの指揮だった。今まで漠然と《ラ・ボエーム》、《トスカ》、《蝶々夫人》の中では、《蝶々夫人》が音楽的には弱いと思っていたが、昨日の演奏で認識を改めた。このオペラの音楽は、僕らがなじんでいるメロディーが多く(日本の歌からもメロディーが取られていることは周知の通り)それを耳が追っていくだけでも退屈はしないようにできているのだが、ルスティオーニはそういったレベルで音楽を作っていない。
全曲の隅々までを、全体として音楽を構築していくという姿勢に貫かれており、《蝶々さん》のなかにこれほど20世紀的響きがあふれていること、また、単に情緒的な旋律が繰り広げられるだけでなく、その対位法的な処理、楽器の巧みな用い方による音色の変化の見事さを気づかせてくれた。
無論、彼がオーケストラを強引に鳴らしまくっているというのではない。歌をきかせるところは伸びやかに、朗々と歌わせる。彼の指揮は何よりリズム感がよく、生理的に気持ちがよい。しかも、しなやかである。テンポも、表情が緊張するところではたたみかけるようにテンポを早め、リラックスしたところではすっと抜く。オーケストラがドラマとともに呼吸しているのである。だから観ているわれわれは自然とそのドラマ(それはリブレットと音楽と歌手の声が一体となってつくり上げるものだ)の中に入っていける。
そのドラマは、《蝶々夫人》の場合、ともすると過度に情緒的なものになりがちであったが、今回の舞台では情緒的でありながら、栗山の品位ある演出、音楽的構成をしっかりと描き出していくルスティオーニの指揮(都響は彼の棒によく応えており見事な演奏だった)があいまって、彫りの深い厚みのある悲劇として迫ってくるものとなっていた。これほど見応えのある舞台・演奏はそうそうお目にかかれないと思う。
蝶々さんは、腰越満美。立派な歌唱であった。スズキは永井和子。ベテランの味わいで要所要所をしめていた。シャープレスの福島明也。実によい味を出していた。シャープレスはピンカートンに蝶々さんの一途さを訴えるが聞き入れてもらえない。その苦渋も含めて格調高く表現していた。ピンカートンは水船桂太郎。序盤は調子が出なかったが後半調子をあげた。
全体として、はじめて、演出も演奏もすみずみまで心から納得いく《蝶々夫人》を観た、聴いたという感覚を持った。大きな感謝を捧げたい。
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