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2014年4月28日 (月)

《南部のささやかな商売》

ロッコ・パパレオ監督の《南部のささやかな商売》を観た(イタリア映画祭、有楽町・朝日ホール)。

ロッコ・パパレオ監督が上映の前後に挨拶と質疑応答をした。
パパレオ監督自身は、神父役、いや元神父役を演じている。元神父というのは、このこすタランティーノという男が、神父であったのに、女性を恋して聖職を捨ててしまったからだ。故郷に帰ってみると、妹夫婦が破綻している。
妹は愛人と逃げた。現在は中国にいるという話だ。その妹の元夫がアルトゥーロ(リッカルド・スカマルチョ)で、寝取られ男と近所の子どもにまでバカにされる。
妹の愛人は実は女性である。実は元神父の実家のお手伝いさんだ。そしてその姉が売春婦(バルボラ・ボブローヴァ)という設定で、これは明らかにカトリック教会および保守派がまゆをひそめるような状況および登場人物ばかりの映画だ。
ひょんなことから彼らとその保守的な母親が一緒に海際の灯台のある建物で暮らし、そこをホテルに改造するという話がもちあがる。
女性同士の同性婚がこれほど正面から取り上げられた映画はきわめて珍しいと思う。監督も質疑応答のなかで革命という言葉を使っていた。

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《存在しない南》

ファビオ・モッロ監督の《存在しない南》を観た(イタリア映画祭、有楽町・朝日ホール)。

カラーブリア出身の監督(来日して上演の前後に舞台挨拶および質疑応答をした)が、同じくカラーブリア出身の女性を主演女優として使い、カラーブリアを舞台にして撮った映画である。
監督が自ら語ったようにこの地域にはンドランゲタという犯罪組織が日常生活にいたるまで根を張っている。人々は沈黙の掟に縛られ、組織に家族を殺られても、それを語ることさえ許されない。
その現実に歯向かおうとする少女グラツィアの物語である。この少女は中性的な感じが独特で、イタリア人とスウェーデン人のハーフのせいか、独特の顔立ちで典型的な南部の顔立ちではないところに意味があるのだろう。つまり、彼女はカラーブリアの掟から一歩はみでていく存在であるからだ。
台詞が比較的少ない映画だ。

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2014年4月27日 (日)

『フェデリコという不思議な存在』

エットレ・スコーラ監督の『フェデリコという不思議な存在』を観た(イタリア映画祭・有楽町・朝日ホール)。

原題は、Che strano chiamarsi Federico なので、フェデリーコと呼ばれる(フェデリーコという名前)のは変だね、というくらいの意味である。
スコーラ監督の方が年下であるが、フェリーニがかつて働いていた諷刺雑誌『マルカウレリオ』という雑誌でスコーラも働きはじめる。フェリーニ、マストロヤンニ、スコーラの交友など、エピソードが語られ、特にフェリーニに関しては実際のインタビューの音声が、新たに撮影された画像のなかにカメオのように埋め込まれている。
こうしてフェリーニの映画に対する考え、フェリーニの映画との関わり方が浮かび上がるしかけである。
今回の映画祭には、ある個人の生涯を振り返りながら、イタリアの来し方を振り返っている映画が多い気がする。イタリアにとって一つの時代が終わり、新たな時代のページがめくられつつあるという感覚が共有されているのかもしれない。

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2014年4月26日 (土)

マスネ《ウェルテル》

マスネ作曲《ウェルテル》を観た(ライブビューイング)。

マスネは曲によってスタイルが変わるが、まぎれもなくフランスオペラの持つ味わいがある。
第一幕はウェルテルとシャルロットが知り合うきっかけを、かなり丁寧に描いていて、イタリアオペラであれば、かなりはしょってしまうだろうというくらいに展開はゆっくりしている。
しかし後半、ウェルテルとシャルロットの関係は劇的に緊張度が増す。シャルロットは人妻となっているわけだが、心は揺れる。しかしウェルテルの気持ちには応えられない。その結果、ウェルテルは絶望して死んでいくわけである。
カウフマン(ウェルテル)とコッシュ(シャルロット)はそのドラマを見応え十分に演じていたと思う。カウフマンの声質がマスネにあっているかと言われれば、最高度にあっているとは言いがたいであろうが、演技としてみると声の問題はさほど気にならなくなってくる。リチャード・エアの演出もかなりオーソドックスでストーリー展開がすっきりのみこみやすいものであった。

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無用のエルネスト

ジョヴァンニ・ヴェロネージ監督の《無用のエルネスト》を観た(有楽町・朝日ホール)。
ヴェロネージは《恋愛マニュアル》でおなじみの方も少なくないだろう。しかし、《無用のエルネスト》はユーモラスなタッチは共有しながらも、全体の語り口は異なる。エルネストという男の少年時代から現在までが、1970年代から2010年代のイタリアの様々なエピソードとともに描かれていく。
ヴェロネージの語り口は上手いので、退屈ではないが、時間の流れが非常に素直に時系列順なことに逆に驚いた。難を言えば、エルネストと妻を演じているエリオ・ジェルマーノとアレッサンドロ・マストロナルディが、実年齢を大幅に越えたところでは老けきれていないことだ。
ここではモーロ首相誘拐暗殺事件やベルルスコーニの政界への登場が出てくる。見事だったのはジャチントを演じたリッキー・メンフィス。金になりそうな話に鼻が効くややいかがわしい男で、エルネストの友人として出てくるのだが、なかなかに興味深い存在である。

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マフィアは夏にしか殺らない

フィリッポ・ディリベルト監督の《マフィアは夏にしか殺らない》を観た(イタリア映画祭2014、有楽町・朝日ホール)。

イタリア映画祭が開幕した。
《マフィアは夏にしか殺らない》は、シチリアのアルトゥーロ少年(後半青年となる)の物語だ。彼の生涯には偶然、マフィアの活動がかかわりをもつ。
ここではマフィアの活動はコミカルに戯画化されて描かれている。1970年代なので、まだマフィアという組織が公式にはその存在すら認められていない。アルトゥーロ少年は同級生のフローラに恋しているのだが、なかなか思うように進展しない。アルトゥーロのヒーローはなぜかジュリオ・アンドレオッティである。この点は非常に効果的なアイロニーをもたらしている。
青年になったアルトゥーロは、ふとした偶然でサルボ・リーマの秘書をつとめるフローラと再開する。サルボ・リーマはアンドレオッティと縁の深い政治家であるが、マフィアに殺されてしまう。この当たりから、マフィアの活動、暗躍は戯画化というよりは事実に則したものになる。ファルコーネ判事が護衛とともに爆殺されたことなどが映画の中にでてくる。
コミカルなタッチで始まったこの映画は、やがてコミカルとは言い切れない映画となって終わる。それゆえジャンル分けはしにくいが、にもかかわらず、見終わったあとにそのことへの違和感はほとんど感じなかった。
La vita è bella でベニーニがとった戦略と相通ずるものを感じる。

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フィリップ・ジャルスキー・コンサート

フィリップ・ジャルスキーフィリップ・ジャルスキーのコンサートを聴いた(初台・オペラシティ・タケミツメモリアルホール)。

フィリップ・ジャルスキーとヴェニス・バロック・オーケストラによるボルポラとヘンデルの曲を交互に配置したコンサート。

ポルポラとヘンデルは、ロンドンのオペラ劇場でライバル関係にあった作曲家だ。今ではヘンデルの方がずっと有名だが、ポルポラはもともとはナポリで活躍した作曲家でカストラート歌手の教育にもあたっている。

ロンドンにおいても、彼はカストラート歌手ファリネッリのためにオペラを書いたのだ。一方、ヘンデルもカストラート歌手カレスティーニのために書いた。

このコンサートではジャルスキーの声、音楽性がともに素晴らしく、なおかつそれにふさわしい伴奏をヴェニス・バロック・オーケストラがしていた。このオケは人数が少なく、動きが軽い。勢いのよいテンポの早いところでは、ずんずんと進んでいくし、アダージョやラルゴの部分では、ジャルスキーの声をメンバーがじっと聞き入って繊細な音使いでフォローしていく。

つまり、大胆になるところと繊細になるところの使い分けが実に適切で、聞いていて気持ちがよい。

ジャルスキーは早いフレーズで声が転がるとか、高音が楽々出るというだけでなく、音楽の作り方が説得力がある。テンポがもたもたしないし、リズムがいつもフレッシュ、生き生きとしている。軽快なテンポのときにはスイングするリズムだ。ゆったりしたテンポの時には、情感たっぷりに歌わせる。彼の装飾音符は自由自在で、装飾音させ音楽的に鳴らす(単なる技工の誇示という感じにはならない)。

技工的にも素晴らしいのだが、それだけでなく、このレベルの音楽性をのびのびと駆使する点で、傑出した音楽家と言えよう。深い感動を覚えるコンサートであった。

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2014年4月24日 (木)

《蝶々夫人》

東京二期会オペラ「蝶々夫人」 日本の伝統美あふれる舞台にイタリアの新鋭が登場 二期会の公演で、プッチーニ作曲の《蝶々夫人》を観た(東京文化会館)。

リブレットは、《ラ・ボエーム》や《トスカ》と同じく、イッリカとジャコーザの2人。
演出は栗山昌良で、様式美にあふれ安定感があり、安心して見ていられる(と言う言い方をするのは、欧米の演出家の《蝶々夫人》には、悪い意味でハラハラさせられることが多いからであるーーこれが日本なの?という疑問が沸騰したりする)。
それどころか陶然とする美ーたとえば、ピンカートンの寄港を知り、一晩中待ちつくす蝶々さんを影絵風に見せるーにことかかない。蝶々さんをはじめ、スズキの所作も自然である。
ということを断ったうえで、圧巻はルスティオーニの指揮だった。今まで漠然と《ラ・ボエーム》、《トスカ》、《蝶々夫人》の中では、《蝶々夫人》が音楽的には弱いと思っていたが、昨日の演奏で認識を改めた。このオペラの音楽は、僕らがなじんでいるメロディーが多く(日本の歌からもメロディーが取られていることは周知の通り)それを耳が追っていくだけでも退屈はしないようにできているのだが、ルスティオーニはそういったレベルで音楽を作っていない。
全曲の隅々までを、全体として音楽を構築していくという姿勢に貫かれており、《蝶々さん》のなかにこれほど20世紀的響きがあふれていること、また、単に情緒的な旋律が繰り広げられるだけでなく、その対位法的な処理、楽器の巧みな用い方による音色の変化の見事さを気づかせてくれた。
無論、彼がオーケストラを強引に鳴らしまくっているというのではない。歌をきかせるところは伸びやかに、朗々と歌わせる。彼の指揮は何よりリズム感がよく、生理的に気持ちがよい。しかも、しなやかである。テンポも、表情が緊張するところではたたみかけるようにテンポを早め、リラックスしたところではすっと抜く。オーケストラがドラマとともに呼吸しているのである。だから観ているわれわれは自然とそのドラマ(それはリブレットと音楽と歌手の声が一体となってつくり上げるものだ)の中に入っていける。
そのドラマは、《蝶々夫人》の場合、ともすると過度に情緒的なものになりがちであったが、今回の舞台では情緒的でありながら、栗山の品位ある演出、音楽的構成をしっかりと描き出していくルスティオーニの指揮(都響は彼の棒によく応えており見事な演奏だった)があいまって、彫りの深い厚みのある悲劇として迫ってくるものとなっていた。これほど見応えのある舞台・演奏はそうそうお目にかかれないと思う。
蝶々さんは、腰越満美。立派な歌唱であった。スズキは永井和子。ベテランの味わいで要所要所をしめていた。シャープレスの福島明也。実によい味を出していた。シャープレスはピンカートンに蝶々さんの一途さを訴えるが聞き入れてもらえない。その苦渋も含めて格調高く表現していた。ピンカートンは水船桂太郎。序盤は調子が出なかったが後半調子をあげた。
全体として、はじめて、演出も演奏もすみずみまで心から納得いく《蝶々夫人》を観た、聴いたという感覚を持った。大きな感謝を捧げたい。

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2014年4月21日 (月)

フィレンツェに新歌劇場

フィレンツェに新歌劇場が誕生する。

5月10日にフィレンツェ5月祭の再出発とともにそこでオテッロとトスカのガラ演奏がなされる予定。

劇場自体は、2011年にすでに演奏会が催されているのだが、このたび、Opera di Firenze (フィレンツェ ・オペラ座とでも言えばよいだろうか)が誕生した(あるいは誕生しつつある)。

座席は1800席で、イタリアに新たな歌劇場が誕生するのは1993年にカリアリで歌劇場が出来て以来のことで、20年ぶりとのことである。
劇場は内部は洋梨の木がつかわれ馬蹄形をしているが、馬蹄形といっても伝統的なものではなく、大胆に現代化したものである(写真がうまく引っ張ってこられないのが残念。Opera di Firenze で検索すると出てきます)。

(Corriere di Sera 4月20日の記事にもとづく)

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2014年4月13日 (日)

《ヴォツェック》

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新国立劇場(東京・初台)で、アルバン・ベルク作曲のオペラ《ヴォツェック》を観た。
実演で見るのは久しぶりで、台詞の細部を忘れていた。今回、聴くと、というか字幕で確認すると、案外、貧困をなげいたり、貧しいからこうせざるを得ないのだ、という歌詞、台詞が多い。
歌手は、ヴォツェック役のゲオルク・ニグルとマリー役のエレナ・ツィトコーワがこのオペラ独特のシュプレヒシュティンメ(リズムと音の上げ下げを規定された独特の語り)だけでなく、通常の歌でも聴かせた。
鼓手長(ローマン・サドニック)や医者(妻屋秀和)、大尉(ヴォルフガング・シュミット)は、衣装や演技もふくめて見応えがあった。欲を言えば、冒頭で大尉がボツェックとの皮肉に満ちたやりとりをする場面で超高音がより迫力のある声で聴かせてもらえればと思ったが、ないものねだりか。
《ヴォツェック》は、ベルクの音楽構成があまりに見事なので、音楽に耳を奪われがちだったが、今回は、すぐれた演出、舞台美術のおかげで、演劇としても見応えのあるものだということを再認識した。《ヴォツェック》は、逆説的な愛のドラマである。ヴォツェックは様々な不条理を押し付けられ、人格を踏みにじられる。経済的な安寧も得られず、信仰も失っている。疎外された人間が、愛を求めるが、思うようには得られず、マリーは鼓手長になびいてしまう。ヴォツェックはついに精神に異常をきたし、マリーを殺し、自らも沼に沈む。
指揮は、やや慎重で切迫力に欠ける場面もあったが、無難にまとめていた。もともとのオーケストレーションが表情や変化に富んでいるので聴き応えはあった。思いの外、種々のダンスが用いられている。こうしたダンス音楽の使用も、《ヴォツェック》の音楽を新ウィーン楽派の中では相対的にとっつきやすいものとするのに貢献しているだろう。

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