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2014年3月13日 (木)

《死の都》

コルンゴルト作曲パウル・ショット台本のオペラ《死の都》を観た(東京初台、新国立劇場)。

パウル・ショットというのは仮名で、実際は作曲家のコルンゴルトとその父が合作でリブレットを書いたのであるがそれが明らかになったのは1970年代半ばアメリカで上演に際してのことだった。

原作はローデンバック(ローデンバッハその他幾通りかの表記が今までになされてきた)の『死都ブルージュ』であるが、プログラムの解説によると、登場人物の名前が変更され、また、亡き妻にマリーという名前が与えられている。

全体は3幕。主人公のパウルは妻を亡くし、彼女を慕うあまり、妻の遺品を集めた部屋を「在りし日を偲ぶ教会」と称している。パウルは亡き妻にそっくりの踊り子マリエッタを発見し、大喜び。

第二幕になると召使のブリギッタが修道女になっている。(亡き妻からマリエッタに心変わりしたことが原因らしい)。マリエッタをめぐりパウルは親友のフランツと争う。マリエッタは、パウルがいまだに亡き妻への思いが強いことをなじり、パウルを肉体で誘惑する。
第三幕では、マリエッタが亡妻マリーの遺髪の金髪をないがしろにするのに腹をたて、パウルがマリエッタを殺してしまう。
パウルが我に返ると、マリエッタの死体が消えている。そして召使のブリギッタが先ほどの女性(マリエッタ)が忘れ物を取りに来たという。これまでのことはパウルの夢だったのである。フランクがやってきて旅立つといい、パウルを誘う。パウルはフランクの後を追う。

べたに見ると、パウルはどうしようもない男である。マリエッタにも許しがたい侮辱的な言葉を何度も吐く(お前にもとめたのは肉体だけだ、うんぬん)。しかし、これは、アレゴリカル(寓意的な)劇なのだと思う。

パウルという一人の男が魂(マリー)と肉体(マリエッタ)の間で引き裂かれている。一方の聖性と、他方の魅力の間を揺れている。この舞台では極端な形で描かれているが、観客も聖性と官能性の間で心が揺れることはあるでしょう、と言わんばかりだ。

あるいはまた、この物語は、親しい人の死を乗り越えるのがいかに困難か、心の中で殺人まで犯してしまうほどの苦闘、葛藤があることを示しているとも言えるだろう。

そういう意味で、多層的に読める、観えるお芝居なのである。

音楽は、一言でいえば良く出来ている。不協和音や不規則なリズムを巧みに駆使しているのだが、いわばウェルメイドなので、聴くものを不安に陥れない。安心して聞いていられる不協和音であり、不規則なリズムなのだ。そういう性格を好ましいと思うか、くいたりないと思うかは好みの別れるところだろう。

これを作曲した時にはコルンゴルトは23歳というのは驚きである。

舞台装置は演出のカスパー・ホルテンと美術のエス・デヴリンによるもので、亡妻マリーの部屋なのだが、舞台奥が最初は巨大なブラインドになっている。それが後になるとあいて、町を俯瞰するような装置があらわれる。不思議な空間である。

パウルがトルステン・ケール。マリエッタはミーガン・ミラー。フランクがアントン・ケレミチェフ。ブリギッタが山下牧子。彼女は安定した声で音量もたっぷりあり良かった。

さきほどのあらすじでは省略してしまったが、実は第二幕の夢の場面でマリエッタの仲間たちが出てきて乱痴気騒ぎをする場面があるのだが、そこに出てくるマリエッタの仲間、ユリエッテは平井香織、リュシエンヌは小野美咲、ガストン(声)/ヴィクトリアンは小原啓楼、アルバート伯爵は糸賀修平。彼ら、彼女らは歌も動きもきびきびとしていたが、服装がもう少しエレガントであるともっと効果的であったかと思う(無論、歌手にその責任があるのではない)。

指揮はヤロズラフ・キズリンク。先鋭的な性質を際立てるのではなく、安定感を重視した演奏であった。
オーケストラは東京交響楽団。日本のオケは達者である。




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