『ある文人学者の肖像ー評伝・富士川英郎』
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富士川義之著『ある文人学者の肖像ー評伝・富士川英郎』(新書館)を読んだ。
富士川英郎と言ってぴんとくる人は一定以上の年齢層に限られるかもしれないが、ドイツ文学者、とくにリルケ研究者として令名高かった学者の伝記である。著者は、英文学者で富士川英郎の子息である。
富士川英郎は、リルケの研究者・翻訳者として名を知られたのだが、ある時から江戸時代の漢詩人に深い関心をよせ、著作をものするようになる。一見、リルケと江戸時代後期の漢詩人(菅茶山や頼山陽、六如上人など)にはなんのつながりもないようだが、そうではないのだ。江戸後期の漢詩人は、宋の詩にまなんで、日常生活をうたう。その歌い方が、明治時代になって正岡子規がとなえた俳句における写生をさきどりしているし、ナポレオンをよんだ詩もあるといった具合なのだ。江戸の漢詩人などというと古色蒼然たる世界をこけむした筆致で描いているものと、無知なままに想像してしまいがちだが、そうではないのだ。モダンなのである。彼の「菅茶山と頼山陽」は雑誌連載当時、朝日新聞の文芸時評で作家石川淳に激賞されたのだった。石川も指摘するように、富士川英郎のアプローチはけれん味がなく、「ゆたかな材料をみごとに使いこなして無理くめんの跡をとどめないのは、調べたかぎりのものをすぐ書いてみせたというだけの書生流のレポートとはもとよりちがう」。おお耳が痛い!
富士川英郎が深い関心を寄せたのは、リルケと江戸漢詩人だけでなく、森鴎外の史伝、とくに『伊澤蘭軒』であった。ここでは英郎の父游(ゆう)が関わってくる。富士川游は、鴎外の友人で、日本医学史という分野を確立し、大著を著した人で、それはつまり、西洋医学(明治時代には主としてドイツに留学した医学者が多かったのは周知の通り)が明治時代に大々的に取り入れられる前に、日本でも着実な医術の営みが続いていた、ということを再認識させるものであった。そしてここで著者が指摘するのは、鴎外の史伝も同じ意図をもった営み(ただし別のアプローチでの)であったということだ。
つまり、鴎外の史伝『渋江抽斎』も『伊澤蘭軒』も、江戸時代の医師たちを扱っており、それは医学において、日本の伝統がないがしろにされがちであったのに対し、実は、江戸時代と明治時代はつながっているし、明治の改革(西洋からの輸入)が花開いたように見えるものには、江戸時代の蓄積、営みがあったればこそだった、ということを地道に証明しようとしていた、ということなのである。それはむろん、医学に限ったことではあるまい。
さらに、富士川英郎は、晩年に詩話というものを書く。詩話というジャンルは江戸時代には盛んに書かれたものらしい。むろん英郎の書いたものは、江戸時代の文人のそれと全く同じではなく、リルケや西洋詩が含まれてくる。ハエをリルケがどうよんだ、ということから朔太郎はこう、江戸後期の漢詩人はこうという具合に自由自在に話がとぶ。論文という肩ひじをはった形式ではなく、心おもむくままに書かれたものの風通しのよさは、管理人にとって発見であった。
また、ここには著者義之氏と父英郎との、激突型ではない葛藤がところどころに回想として描かれ、最後にはまとまった形でその親子関係への考察が述べられている。父はドイツ文学者で息子は英文学者。父はああしろ、こうしろと言う人ではない。英郎自身は父游を手放しで尊敬していたようだが、義之氏はもっと屈折があり、それが長い年月を通じて、また、この伝記を書くことで過去を振り返ることによってほぐれていく様は、しずかだが深い感動をよぶ。
今や、日本の大学において、絶滅危惧種となりかかっている(すでになっている?)文人学者の生き方を知ることができる。
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