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2014年3月14日 (金)

コルンゴルト《死の都》

コルンゴルト《死の都》のDVDを観た。

ジャン・レイサム=ケーニック指揮ストラスブール・フィルハーモニック管弦楽団、ライン国立歌劇場合唱団、インガー・レヴァント演出のもの。
先日の新国立劇場の演奏とくらべると、指揮がずっときびきびとしていた。場面が切迫してくると、テンポを早めてたたみかけるという自然な流れがずっとうまく機能している。
演出に関しては、まず、最初に妻の遺品を飾ってある部屋が汚い。倉庫に住んでいたのでもあるまいしと思う。二幕の夢の乱痴気騒ぎの場面も、フェリーニを思わせるという意味の宣伝文句があったが、これではフェリーニが泣くだろう。
字面でおうと(つまりリブレットのレベルでは)マリエッタは大いに肉体性でパウルを誘惑するし、乱痴気場面もあるのだが、音楽やここでのマリエッタ(アンゲラ・デノケ)は妖艶とかセクシーというのにはほど遠いと感じた。
不条理というか葛藤を感じさせる音楽はあるが、官能性を感じさせる面は希薄だ。それは例えばアルバン・ベルクと比較してみれば明らかだろう。
結末のところで、パウルには出口なしで、部屋から出て行けず、むしろ彼が自殺したことを示唆するのは、大胆な解釈だが、そういう解釈もありうるという説得力はあった。この演出では、パウルの親友のフランクが夢の中では司教の姿で出てきて、夢がさめても服装はそのままで、パウルにナイフを渡す場面がある。はっきりは見えないのだが、パウルはそのナイフで自らを刺したのだと思われる。
新国立の舞台を観た時にも書いた感想だったが、このDVDでは、表面的なストーリーだけでなく、宗教的なレベルでの意味合いがかなり強調されていた。つまり、一次的なレベルでは、パウルは亡妻を聖なるものとしながらも、その面影をたたえる踊り子マリエッタの肉体性に幻惑され、幻惑されること自体に嫌悪感をいだき、マリエッタに惹かれたり、逆に遠ざけようとしたりするわけだが、それは、同時にパウルにとって、魂と肉体というキリスト教世界での伝統的テーマのヴァリエーションになっているということだ。宗教に対する冒涜すれすれのところで、魂対肉体のドラマが展開されているとも言えよう。また、この演出では、パウルは結局、親しい者の死を克服することに失敗し、その部屋(亡妻の遺品を飾って、聖堂としている)から出ていけないという結末を迎えることになっている。
様々な読みを誘いこむという点では、パウルのマリエッタに対する数々の暴言にもかかわらず、興味深いシナリオ、いや、リブレットだといえよう。

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