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2014年3月26日 (水)

『オペラは脚本(リブレット)から』

辻昌宏著『オペラは脚本(リブレット)から』(明治大学出版会、2940円)が出版された。

 著者は、管理人ときわめて近い人物なので、論評は避けて、構成を紹介します。
まず序章「脚本(リブレット)が先か、音楽が先か」で、オペラにおいて、通常は作曲家や上演時における歌手の出来、演出についてが論じられることが多いのに、なぜリブレットに着目するかが語られる。
第1章「脚本に介入するプッチーニ   《ラ・ボエーム》とイッリカ、ジャコーザ」では、《ラ・ボエーム》のリブレットには最初の案では中庭の幕とよばれる幕があったが、せっかく書いたリブレットのその部分をプッチーニがそっくり削除させてしまったことが明らかにされる。
第2章は「検閲と闘うヴェルディ   《リゴレット》とピアーヴェ」。《リゴレット》は、原作やリブレットの最初の案では、フランス王が若い女性をもてあそぶ話だった。それが当時の検閲にひっかかって、王が主人公ではまかりならぬということになり、ピアーヴェが改作する。改作してフランス貴族に変えると今度はヴェルディが納得しない。最終的には周知のごとく、マントヴァの公爵になるが、それはいかなるプロセスで、また何故それならばヴェルディが納得したのかが明らかにされる。
第3章は「ロマン派を予言するドニゼッティ  《愛の妙薬》とロマーニ」。愛の妙薬のなかでは2つの恋愛観が示される。アディーナは18世紀的な駆け引きのある恋愛ゲーム的恋愛観の持ち主。一方、ネモリーノは一途なロマン主義的な恋愛観の持ち主。このオペラでは、この2つの恋愛観があらがい、最後にロマンティックな恋愛が勝利する物語なのだ。それを媒介するのが、詐欺師的なドゥルカマーラのいんちきな愛の妙薬というのが楽しい。著者は、このオペラが個人的にとても好きらしい。
第4章は、「性別を超えるロッシーニ   《チェネレントラ》とフェッレッティ」。原作のシンデレラでは、まま母が出てくるのに、なぜロッシーニではまま父が出てくるのか。ロッシーニの楽しさはどこにあるのかが語られる。
第5章は「挑発を愉しむモーツァルト  《フィガロの結婚》とダ・ポンテ」。ダ・ポンテの数奇な生涯がモーツァルトと交差したときに傑作が生まれた。モーツァルトが実はリブレットに対して大きなこだわりを持っていたことが明らかにされ、また、それが楽曲のなかでどう活かされているのか、重唱における押韻の活かし方が示されている。
終章は「こうしてオペラは始まった」で、フィレンツェのカメラータやモンテヴェルディといったオペラの草創期において、どんな人がどういうリブレットを書いたのか、その時にモデルになったのは、単に古代ギリシア劇だけではなく、16世紀の牧歌劇やインテルメッゾの詩形だったことが、具体的に例示される。
3月27日より大手書店やアマゾンでの取り扱いが始まるとのこと。一度、手にとっていただければ幸いです(と著者が申しております)。

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2014年3月14日 (金)

コルンゴルト《死の都》

コルンゴルト《死の都》のDVDを観た。

ジャン・レイサム=ケーニック指揮ストラスブール・フィルハーモニック管弦楽団、ライン国立歌劇場合唱団、インガー・レヴァント演出のもの。
先日の新国立劇場の演奏とくらべると、指揮がずっときびきびとしていた。場面が切迫してくると、テンポを早めてたたみかけるという自然な流れがずっとうまく機能している。
演出に関しては、まず、最初に妻の遺品を飾ってある部屋が汚い。倉庫に住んでいたのでもあるまいしと思う。二幕の夢の乱痴気騒ぎの場面も、フェリーニを思わせるという意味の宣伝文句があったが、これではフェリーニが泣くだろう。
字面でおうと(つまりリブレットのレベルでは)マリエッタは大いに肉体性でパウルを誘惑するし、乱痴気場面もあるのだが、音楽やここでのマリエッタ(アンゲラ・デノケ)は妖艶とかセクシーというのにはほど遠いと感じた。
不条理というか葛藤を感じさせる音楽はあるが、官能性を感じさせる面は希薄だ。それは例えばアルバン・ベルクと比較してみれば明らかだろう。
結末のところで、パウルには出口なしで、部屋から出て行けず、むしろ彼が自殺したことを示唆するのは、大胆な解釈だが、そういう解釈もありうるという説得力はあった。この演出では、パウルの親友のフランクが夢の中では司教の姿で出てきて、夢がさめても服装はそのままで、パウルにナイフを渡す場面がある。はっきりは見えないのだが、パウルはそのナイフで自らを刺したのだと思われる。
新国立の舞台を観た時にも書いた感想だったが、このDVDでは、表面的なストーリーだけでなく、宗教的なレベルでの意味合いがかなり強調されていた。つまり、一次的なレベルでは、パウルは亡妻を聖なるものとしながらも、その面影をたたえる踊り子マリエッタの肉体性に幻惑され、幻惑されること自体に嫌悪感をいだき、マリエッタに惹かれたり、逆に遠ざけようとしたりするわけだが、それは、同時にパウルにとって、魂と肉体というキリスト教世界での伝統的テーマのヴァリエーションになっているということだ。宗教に対する冒涜すれすれのところで、魂対肉体のドラマが展開されているとも言えよう。また、この演出では、パウルは結局、親しい者の死を克服することに失敗し、その部屋(亡妻の遺品を飾って、聖堂としている)から出ていけないという結末を迎えることになっている。
様々な読みを誘いこむという点では、パウルのマリエッタに対する数々の暴言にもかかわらず、興味深いシナリオ、いや、リブレットだといえよう。

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2014年3月13日 (木)

《死の都》

コルンゴルト作曲パウル・ショット台本のオペラ《死の都》を観た(東京初台、新国立劇場)。

パウル・ショットというのは仮名で、実際は作曲家のコルンゴルトとその父が合作でリブレットを書いたのであるがそれが明らかになったのは1970年代半ばアメリカで上演に際してのことだった。

原作はローデンバック(ローデンバッハその他幾通りかの表記が今までになされてきた)の『死都ブルージュ』であるが、プログラムの解説によると、登場人物の名前が変更され、また、亡き妻にマリーという名前が与えられている。

全体は3幕。主人公のパウルは妻を亡くし、彼女を慕うあまり、妻の遺品を集めた部屋を「在りし日を偲ぶ教会」と称している。パウルは亡き妻にそっくりの踊り子マリエッタを発見し、大喜び。

第二幕になると召使のブリギッタが修道女になっている。(亡き妻からマリエッタに心変わりしたことが原因らしい)。マリエッタをめぐりパウルは親友のフランツと争う。マリエッタは、パウルがいまだに亡き妻への思いが強いことをなじり、パウルを肉体で誘惑する。
第三幕では、マリエッタが亡妻マリーの遺髪の金髪をないがしろにするのに腹をたて、パウルがマリエッタを殺してしまう。
パウルが我に返ると、マリエッタの死体が消えている。そして召使のブリギッタが先ほどの女性(マリエッタ)が忘れ物を取りに来たという。これまでのことはパウルの夢だったのである。フランクがやってきて旅立つといい、パウルを誘う。パウルはフランクの後を追う。

べたに見ると、パウルはどうしようもない男である。マリエッタにも許しがたい侮辱的な言葉を何度も吐く(お前にもとめたのは肉体だけだ、うんぬん)。しかし、これは、アレゴリカル(寓意的な)劇なのだと思う。

パウルという一人の男が魂(マリー)と肉体(マリエッタ)の間で引き裂かれている。一方の聖性と、他方の魅力の間を揺れている。この舞台では極端な形で描かれているが、観客も聖性と官能性の間で心が揺れることはあるでしょう、と言わんばかりだ。

あるいはまた、この物語は、親しい人の死を乗り越えるのがいかに困難か、心の中で殺人まで犯してしまうほどの苦闘、葛藤があることを示しているとも言えるだろう。

そういう意味で、多層的に読める、観えるお芝居なのである。

音楽は、一言でいえば良く出来ている。不協和音や不規則なリズムを巧みに駆使しているのだが、いわばウェルメイドなので、聴くものを不安に陥れない。安心して聞いていられる不協和音であり、不規則なリズムなのだ。そういう性格を好ましいと思うか、くいたりないと思うかは好みの別れるところだろう。

これを作曲した時にはコルンゴルトは23歳というのは驚きである。

舞台装置は演出のカスパー・ホルテンと美術のエス・デヴリンによるもので、亡妻マリーの部屋なのだが、舞台奥が最初は巨大なブラインドになっている。それが後になるとあいて、町を俯瞰するような装置があらわれる。不思議な空間である。

パウルがトルステン・ケール。マリエッタはミーガン・ミラー。フランクがアントン・ケレミチェフ。ブリギッタが山下牧子。彼女は安定した声で音量もたっぷりあり良かった。

さきほどのあらすじでは省略してしまったが、実は第二幕の夢の場面でマリエッタの仲間たちが出てきて乱痴気騒ぎをする場面があるのだが、そこに出てくるマリエッタの仲間、ユリエッテは平井香織、リュシエンヌは小野美咲、ガストン(声)/ヴィクトリアンは小原啓楼、アルバート伯爵は糸賀修平。彼ら、彼女らは歌も動きもきびきびとしていたが、服装がもう少しエレガントであるともっと効果的であったかと思う(無論、歌手にその責任があるのではない)。

指揮はヤロズラフ・キズリンク。先鋭的な性質を際立てるのではなく、安定感を重視した演奏であった。
オーケストラは東京交響楽団。日本のオケは達者である。




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2014年3月10日 (月)

  『ある文人学者の肖像ー評伝・富士川英郎』

富士川義之著『ある文人学者の肖像ー評伝・富士川英郎』(新書館)を読んだ。

富士川英郎と言ってぴんとくる人は一定以上の年齢層に限られるかもしれないが、ドイツ文学者、とくにリルケ研究者として令名高かった学者の伝記である。著者は、英文学者で富士川英郎の子息である。
富士川英郎は、リルケの研究者・翻訳者として名を知られたのだが、ある時から江戸時代の漢詩人に深い関心をよせ、著作をものするようになる。一見、リルケと江戸時代後期の漢詩人(菅茶山や頼山陽、六如上人など)にはなんのつながりもないようだが、そうではないのだ。江戸後期の漢詩人は、宋の詩にまなんで、日常生活をうたう。その歌い方が、明治時代になって正岡子規がとなえた俳句における写生をさきどりしているし、ナポレオンをよんだ詩もあるといった具合なのだ。江戸の漢詩人などというと古色蒼然たる世界をこけむした筆致で描いているものと、無知なままに想像してしまいがちだが、そうではないのだ。モダンなのである。彼の「菅茶山と頼山陽」は雑誌連載当時、朝日新聞の文芸時評で作家石川淳に激賞されたのだった。石川も指摘するように、富士川英郎のアプローチはけれん味がなく、「ゆたかな材料をみごとに使いこなして無理くめんの跡をとどめないのは、調べたかぎりのものをすぐ書いてみせたというだけの書生流のレポートとはもとよりちがう」。おお耳が痛い! 
富士川英郎が深い関心を寄せたのは、リルケと江戸漢詩人だけでなく、森鴎外の史伝、とくに『伊澤蘭軒』であった。ここでは英郎の父游(ゆう)が関わってくる。富士川游は、鴎外の友人で、日本医学史という分野を確立し、大著を著した人で、それはつまり、西洋医学(明治時代には主としてドイツに留学した医学者が多かったのは周知の通り)が明治時代に大々的に取り入れられる前に、日本でも着実な医術の営みが続いていた、ということを再認識させるものであった。そしてここで著者が指摘するのは、鴎外の史伝も同じ意図をもった営み(ただし別のアプローチでの)であったということだ。
つまり、鴎外の史伝『渋江抽斎』も『伊澤蘭軒』も、江戸時代の医師たちを扱っており、それは医学において、日本の伝統がないがしろにされがちであったのに対し、実は、江戸時代と明治時代はつながっているし、明治の改革(西洋からの輸入)が花開いたように見えるものには、江戸時代の蓄積、営みがあったればこそだった、ということを地道に証明しようとしていた、ということなのである。それはむろん、医学に限ったことではあるまい。
さらに、富士川英郎は、晩年に詩話というものを書く。詩話というジャンルは江戸時代には盛んに書かれたものらしい。むろん英郎の書いたものは、江戸時代の文人のそれと全く同じではなく、リルケや西洋詩が含まれてくる。ハエをリルケがどうよんだ、ということから朔太郎はこう、江戸後期の漢詩人はこうという具合に自由自在に話がとぶ。論文という肩ひじをはった形式ではなく、心おもむくままに書かれたものの風通しのよさは、管理人にとって発見であった。
また、ここには著者義之氏と父英郎との、激突型ではない葛藤がところどころに回想として描かれ、最後にはまとまった形でその親子関係への考察が述べられている。父はドイツ文学者で息子は英文学者。父はああしろ、こうしろと言う人ではない。英郎自身は父游を手放しで尊敬していたようだが、義之氏はもっと屈折があり、それが長い年月を通じて、また、この伝記を書くことで過去を振り返ることによってほぐれていく様は、しずかだが深い感動をよぶ。
今や、日本の大学において、絶滅危惧種となりかかっている(すでになっている?)文人学者の生き方を知ることができる。

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2014年3月 4日 (火)

レオナルド・ダ・ヴィンチ『絵画の書』

レオナルド・ダ・ヴィンチ『絵画の書』(斎藤泰弘訳、岩波書店)を読んでいる。

従来『絵画論』と呼ばれていたものだが、初の全訳である。ダ・ヴィンチが書いた膨大な草稿から絵画に関する部分を弟子のフランチェスコ・メルツィが抜き出してまとめたもの。訳者の解説によると、全体としては、むろん、ダ・ヴィンチが書いたのだが、細かいところになると、メルツィの写し間違いや、メルツィの筆が加わった部分がある。それがどこまで、レオナルドによるもので、どこからがメルツィの介入かを判断するのに苦労したとのこと。
そもそもこの本がメルツィによってまとめられてから(1600年代前半)も、長らく出版はされず、ウルビーノのデッラ・ローヴェレ家の当主が所蔵し、そこからヴァティカンへと所有者がうつり、ようやく1817年に出版される(もっとも不完全な版は1651年に出版されている)。
内容は8部に別れていて、
第一部 詩と絵画について
第二部 画家の教則について
第三部 人のさまざまな情動と運動、および四肢の比例について
第四部 衣装について。人物像を優美に装わせる方法について。衣装と布地の
          種類について
第五部 光と影について
第六部 樹木と植物について
第七部 雲について
第八部 地平線について
となっている。全体は944の章(断片)からなっていて、前後の章は関連が深いものがならんでいる。たとえば、第三部の289章は、「一瞥しただけで人の横顔の肖像を描く方法について」となっていて、こういう場合には横顔の4つの部分に注目せよという。4つとは鼻、口、あご、そして額である。
 
さらに鼻に関して記憶すべきことを細部にわたって述べている。鼻には3つの種類があって、まっすぐな鼻、凹型の鼻、凸型の鼻がある。まっすぐな鼻のなかに、長い鼻、短い鼻、先端の高い鼻、低い鼻というふうに下位区分がある。凹型には3つ。上部がへこんでいるか、中央がへこんでいるか、かぶがへこんでいるか。さらには、こういったものの組み合わさった型、たとえば上下が凹型で中が隆起といったものがあるわけだ。
こういった細かい区分は図によって示されている(すべての章に図があるわけではないが、ところどころに手書きの図が掲載されている)。
第5部では、たとえば683章に「物体の照らされた部分と影の部分の間にある、中間的な影について」という章があるが、その前後には光と影についてのさまざまな角度からの考察がならんでいる。
あるいはまた、距離によってものの見え方がどう変わるかということも詳しく論じられている。
絵画における『パンセ』といった趣を感じる。管理人のように絵画に関するまったくの素人が気のおもむくままにあちこちのぞいても面白い。つまり、レオナルドって、絵を描くときに(あるいは描く前提として)こんなことを考えていたのか、という感慨と、当然ながら、きわめて具体的な事柄を具体的に理路整然と語っていることに驚く。いわゆる印象論ではなく、話が具体的なのだ。専門家にとっての意義はいうまでもないと推測するが、それはまたしかるべき人の書評に期待したい。

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『名作短編で学ぶイタリア語』

関口英子+白崎容子編訳『名作短編で学ぶイタリア語』(ペレ出版、2500円)を読んでいる。

初級で一通り文法は終わった中級の学習向けの本であると思うが、扱っている作家が、19世紀のヴェリズモ(真実主義、フランスなどの自然主義のイタリア版)の作家カプアーナから20世紀のモラヴィア、最近亡くなったタブッキ、現役のステファノ・ベンニをはじめとして、ボンテンペッリ、パピーニ、ブッツァーティ、デレッダ、ピランデッロと豪華な顔ぶれであるし、なかなか対訳で読む機会のない作家ばかりだ(ただし、ピランデッロに関しては、『エンリーコ4世』の小林勝氏による対訳本が大学書林から出ている。戯曲である)。
本書はタイトルにあるように、短編ばかりなので、一息に一篇を読み切ることはさほどむつかしくない(と思う)。なおかつ、語法について、むつかしそうなところは、丁寧に註がほどこされているし、その部分は本文がグレーになっているので、単に数字が付してあるだけよりぐっとわかりやすい。
一人の作家を読み終わると、文法ポイントがまとめてある。たとえば、句読点についてや、ジェルンディオ(英語の分詞構文に相当するものです)についての説明が、作家の文例をひいて説明されている。そういってはなんだが、初級者向けの文例とは味わいが違う(初学者向けの本のなかでは、理解しやすいように、要素をシンプルにし内容単純な例文にするのはやむをえないとは思うが)。
また、短編ごとに難易度が星印で1つから5つまである。ピランデッロは5つ星である。
冒頭にあるカプアーナはヴェリズモの作家と言ったが、ここで取り上げられているのは、民話口調の「こま娘」というおとぎ話で、こまと合体した人形が、こまがまわっている間は口をきき、その人形に王子が恋をするという話で、ヴェリズモではまったくないのは愉快なアイロニーだ。文学史や音楽史を書いたり、読んだりするうえでの整理としてなになに主義は便利だが、一人の作家の音域、表現の幅は、すぐれた作家になればなるほど、一口ではくくりきれないということか。
ステファノ・ベンニだけ2つの短編がとられているが、片方がおじいさん(複数)が主人公で、もう一方はおばあさん(複数)が主人公。おじいさんは、車の多い通りがなかなか渡れない。おばあさんはバールにやってきて他人の病気の話ばかりしているのだが、彼ら、彼女らを描写する筆はちょっとブラックなユーモアに満ちているし、ときに漫画チックでさえある。
読み進めていくと、作家による文体、作品世界の雰囲気の違いも自然にわかる。章ごとに付されたイラストも楽しい。

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