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2014年1月20日 (月)

《夕鶴》

Flyer團伊玖磨作曲のオペラ《夕鶴》を見た(東京文化会館)。

 脚本は木下順二。もともと戯曲だったものを、オペラ化したのだが、その際に木下は脚本(リブレット)は、もとの戯曲の言葉を一言一句変えてはならないという条件をつけたという。
 夕鶴は、周知のごとく民話のつるの恩がえしがもとになった戯曲で、ストーリーはこのうえなく判りやすい。また、木下は方言を駆使して、平易でかつ美しい日本語のやりとりを達成している。團伊玖磨の仕事は、その日本語を活かすことだったと思われる。曲はプッチーニ風というか、なだらかなメロディーが多用される。オーケストラの響きも弦楽器が軸となって、民話的世界を響かせている。
 
 与ひょうに、金儲けの誘惑をする運ずや惣どに割り振られた音楽には、不気味な響きもある。金管が低音を響かせもするが、たとえばベルクの《ヴォツェック》のような先鋭的なものではない。これは夕鶴が民話的世界であることを反映しているのかもしれないし、團伊玖磨が目指しているのが、日本語がきちんと聞き取れるオペラということもあったのかもしれない。
 日本語のオペラなり歌曲なりをいくつか聞けばわかるが、日本人が日本語の歌詞で歌っていても、なんと言っているのか聞き取れないことはしばしばある。それが《夕鶴》ではとてもよく聞き取れる。この日は左右に電光掲示板による字幕もあったから万全の体制をとっていたわけだが、かりに字幕がなかったとしても相当部分は聞き取れたと思う。佐藤しのぶ(つう)、倉石真(与ひょう)、原田圭(運ず)、惣ど(高橋啓三)(敬称略)は、みなその点において素晴らしかった。
 演出は、市川右近。シンプルな舞台で、舞台装置は奥の大きなスクリーンと脇の可動式のスクリーン。および舞台中央の回転舞台。佐藤しのぶをはじめ衣装も、かなり抽象化されたもので、モダンでエレガントなつうである。しかしながら、佐藤の動きは、どこかしら日本舞踊を連想させる優美なもので、西洋的なダイナミズムとは異なる見応えのあるものだった。つうの佐藤の存在感は傑出したものであったが、男性陣も、倉石の与ひょうをはじめ手堅く脇をかためていた。惣どには、スカルピア的なあくどさがもう一枚加わっても、と思った時もあった。つうのアリア、言葉の響かせ方に哀切、痛切なものがあり、特に第二幕のアリアは心打つ表現だった。
 思えばこのストーリーは、つうがイデア(理想)を表しているのだろう。イデア的なものを一瞬とらえたと思っても、現世ではそれは束の間であって、飛び去っていってしまう。与ひょうは、基本的には善良な人間で、だからこそ、つうと気持ちを通じることが出来たのに、人間世界の悪(運ず、惣どが体現)にそそのかされて、それにうかうかとのせられてしまう。その結果、つうを永遠に失ってしまうわけだ。
 森英恵の衣装は、和服ではなくても、つうの姿をシンプルにエレガントに表現できることを実証していた。
 指揮とオーケストラは安心して聞いていられる高い水準のものだが、緊迫した場面や悪の表現において、もう一歩踏み込んでもと思うところもあった。
 全体としては、特に第二幕の素晴らしさに圧倒された。
 ちなみに、今回のプログラムは装丁やレイアウトがすっきりしていて美しい。さらには、巻末に、脚本が掲載されているのは素晴らしい。欧米のプログラムでもリブレットが掲載されているものは多い。美点は共通していてもなんの不都合もない。

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