《エフゲニー・オネーギン》
ライブビューイングで《エフゲニー・オネーギン》を観た。
チャイコフスキーのオペラである。
原作はプーシュキンの韻文の物語詩である。タチヤーナがネトレプコ、オネーギンがクヴィーチェンという豪華なキャスト。
ネトレプコはロシア人であり、学校時代に勉強させられなじみの作品だとのこと、また、指揮者のゲルギエフも学校で暗唱させられたと語っていた。クヴィーチェンはポーランド人で近親性を感じるとのこと。
オペラを演じるときに、リブレット(脚本、歌詞)の言語に親しんでいることは、重要だということをあらためて認識させられたインタビューであった。
《エフゲニー・オネーギン》を観たのは久しぶりだったが、記憶の中にあるよりはメロディーらしいメロディーがあった。とはいえ、舞踏の場面のオーケストラに比べると、他のアリアは音楽がゆったりと進む。
ストーリーはまさにメロドラマで、田舎に帰った色男で頽廃的な匂いのするオネーギンに、少女のタチアーナが夢中になり彼に手紙を書くが袖にされる。それから何年かして、二人は再開するとタチアーナは見違えるように美しく成熟しており、オネーギンは彼女に惹かれるが今度はタチアーナが惹かれつつも拒絶する。
ネトレプコは少女の演技も顔の表情の造形が巧みで違和感がない。20年?が経過して成熟した女性になった姿はまさにぴったりである。クヴィーチェンは声は美しいし、容姿も決して悪くないのだが、立ち居振る舞いが、いまいちあか抜けない。田舎の少女をぽっとさせるダンディーさが欲しいところだ。オネーギンの友人を演じたベチャワの方が演技では健闘していたかもしれない。
これでロシア語がわかればもっと言葉遣いと音楽との連関がわかるのかと想像もしたが、言葉が判らない者としては、音楽の動きのもったり感が時にはもどかしいのであった。しかし、時には、こういう大時代的なメロドラマもいいものだとも思った。ネトレプコのインタビューでは、自分はタチアーナとは全然性格も反対で、あんな状況なら彼を食べてしまうという意味のことを言っていた。時代は変わったのである。
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