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2013年8月15日 (木)

《ギヨーム・テル》

《ギヨーム・テル》を再び観た(ペーザロ、アドリアティック・アレーナ)。

ロッシーニの最後の作品の音楽的充実は喩えようがない。ドニゼッティは1幕、3幕、4幕はロッシーニが書いたが、2幕は神が書いた、とまで言ったそうである。
たしかに、音楽は優雅な部分、激しい部分、ロマンティックな部分がありながら、どれかの要素が過剰になって破綻をきたすことはなく、充実しつつ均整を保っている。
二回観ると、ヴィックの演出意図がかなり理解できるようになった(気がする)。第三幕で長いバレエのシーンがあるが、ヴィックはこれをオーストリア人(支配者側)が舞踏会を開いており、そこにスイス人のしもべをはべらせているという形で描いている。たんにしもべであるだけでなく、そこに性的な従属を色濃く示唆している。
スイスのある若者は、同性愛者のオーストリア人の貴族・紳士に無理矢理せまられ、顔を下腹部に押しつけられる。スイスの女性たちも、オーストリア人の貴族・紳士たちに足蹴にされおびえている(やはり性的暴力の示唆がある)。他にもあるのだが、観客の反応がまったく異なった。
初日は、この場面のあとで拍手がおこったのだが、2日目には相当なブーイングが起こった。バレエ音楽は、音楽としては優雅な均整のとれたと音楽として書かれているのだが、この日のものはモダン・ダンスであり、振り付けも身体を激しくけいれんさせるタイプのもので、優雅さを目指したものではない。それどころか、前述のように、政治的な支配・被支配の関係を、性的従属の関係に置き換えて、暴きだそうというもので、違和感を抱いた人が多数いたのもうなずける。
ただし、ロッシーニの読みに関しては、なんの制限も設けない、あらゆる可能性の追求を認めるのがROFの伝統なのである。変えていけないのは、リブレットと楽譜だけなのだ。演出は何でもありなのである。
こうして様々なアプローチが試行錯誤的に試みられ、ロッシーニにひそむ現代性も古典性も明らかになっていくのだろう。その各々の試みに対して、観客も好悪、賛否を示す権利があるのは言うまでもない。それこそが、制作者と観客の健全な関係なのだと思う。

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